1999年-2000年:形勢逆転
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「マンデー・ナイト・ウォーズ」の記事における「1999年-2000年:形勢逆転」の解説
1999年が明けた時点で、両番組は毎週視聴率5.0をコンスタントに上げており、また人気レスラーが一般誌の表紙に登場するなどし、プロレス人気が高いことが示された。 1月4日、ジョージア・ドームから放送されたナイトロのメインイベントでは、ゴールドバーグ対ケビン・ナッシュのタイトルマッチが予定されていた。しかし番組の中盤でゴールドバーグは(筋書き上)警察に逮捕されてしまう。代わってハルク・ホーガンとケビン・ナッシュと戦うことになったのだが、その試合ではホーガンがナッシュの胸を軽く指で突き、ナッシュがすぐに倒れてフォールを奪われた。あからさまなタイトル移動の後、nWoは再結成された。のちに「フィンガーポーク・オブ・ドゥーム」と呼ばれるこの出来事で、WCWは明らかに信頼性を失った。本来予定されていたゴールドバーグの試合がなかったばかりか、メインの試合後のリング上でnWoに無惨に陵辱されたためである。これに対し、ロウは事前に行われたWWF世界ヘビー級選手権を放送。試合は当時の団体を代表するカリスマ的人気を博していたマンカインドとザ・ロックの2名が対峙し、ベビーフェイスのマンカインドをD-ジェネレーションXが、体制派ヒールのロックをコーポレーションがリングサイドにつく形で見守っていた。試合終盤、両セコンド陣の乱闘の最中、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンが乱入。ロックを椅子で殴打し、マンカインドのフォールを助ける形で彼のタイトル奪取を支援した。ナイトロはロウの試合結果を把握するや否や、すぐに自らの番組内で公表したが、皮肉にもナイトロからロウへ番組を切り替える視聴者が続出する事態が起きてしまった。 ロウが視聴率でナイトロより優位に立ち始めると、WCWは一連の応急処置でこれに対応した。ラッパーのマスターPを登場させたり、メガデス、チャド・ブロック、キッスのコンサートを番組内で行なったのだが、結局視聴率でロウに勝つことはできず、1999年9月にはエリック・ビショフが解雇された。一方のWWEは、ザ・ロックとミック・フォーリーによる、ドキュメンタリー番組"This is Your Life"をモチーフにしたリング上での25分にもわたるスキットを9月27日に放送すると、15分間毎の視聴率で8.4という高い数字をたたき出した。プロレスの試合ではなくリング上の長いスキットが高視聴率であったことは異例で、ザ・ロックとミック・フォーリーという二人のタレント性が高かったことを示している。 1999年10月5日、WWFでライターをしていたビンス・ルッソーとエド・フェララの二人は、WCWに引き抜かれた。WWFで数々のアングルを作った実績を買われたことによる引き抜きであったが、この二人はナイトロをロウそっくりにしてしまった。 1999年12月、ブレット・ハートはスターケードでのゴールドバーグとの対戦で負傷し、レスラーとしてのキャリアを終わらせた。WCWは視聴率も資金も落ち込み続け、翌2000年の1月、総合格闘家のタンク・アボットを世界王者に置くアングルを作った時に、ルッソとフェララの両者は解雇された。ケビン・サリバンが後を継いでブッカーとなったが、WCWのレスラーたちの間で問題となり、『ソウルド・アウト2000』興行でWCW王者になったクリス・ベノワほか、エディ・ゲレロ、ペリー・サターン、ディーン・マレンコらとともに団体を辞めた。ベノワが王者になってから15日後、4人全員がザ・ラディカルズとしてWWFに入った。 ナイトロは視聴率の低下とともに、2000年1月には放送時間を2時間に縮小した。2000年4月、ECWと契約が切れた当時のECW王者、マイク・アッサムを雇った。彼のWCWへの登場は、ECWオーナーのポール・ヘイマンの訴訟を引き起こした。結局マイク・アッサム(WCWと契約したレスラーでECW王者)はWCWのセキュリティとともにECWのリングに上がり、タズ(WWFと契約したレスラー)と試合をして、王座はタズに移動した。そしてタズはECW王者として『WWFスマックダウン』に登場し、WWF王者トリプルHと戦い、そして敗れた。この王座の移動は、WWFがWCWに対して優位であることを知らしめた。 2000年4月10日、ビショフとルッソーは再びWCWでブッカーとして雇われた。WWFに奪われた優位を奪回することを目的とし、ホーガン、フレアー、ダイヤモンド・ダラス・ペイジなどWCWのベテランスターたちをまとめてミリオネアズ・クラブを結成。ビリー・キッドマン、ブッカーT、バフ・バグウェルなどの若いスターたちのニュー・ブラッドとの世代間抗争のアングルを作った。世代間抗争はたいてい若い世代が、スター選手に対して勝つか引き分けるかの結果を出すものだが、ニュー・ブラッドの顔ぶれはいずれも実力、カリスマ性ともに劣っていたためか、このアングルは成功しなかった。 WCWはさらに混迷した。WCWを取り上げた映画の宣伝のため、俳優のデヴィッド・アークエットを世界王者に据えたり、ルッソ自身を王者にブックする愚挙までした。 当時、テッド・ターナーはすでに団体の経営から身を引いていた。WCWは1996年にタイム・ワーナーに、その後2000年にAOLに買収された。番組の広告の減少、ハウスショーの観客動員力の低下、ベテランスターへの契約金などにより、2000年のWCWの損失は6200万ドルにのぼった。 7月には再びビショフは去り、その後はフェララ、ジェフ・ジャレット、ビル・バンクス、ジェレミー・ボラッシュ、ディスコ・インフェルノなどさまざまなスタッフやレスラーがブックに関与し、混迷は極まった。2000年終わりにはWCWが消滅する噂が上った。
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