1974年の橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 15:46 UTC 版)
旧橋が老朽化して橋全体が痛み、橋面が傾いているのが目視でも確認できる程にもなり、橋の通行が危険な状態になったため、強風による落橋を危惧した橋周辺の関係町内四地区が中心となり「巴側橋建設期成同盟会」が結成され、埼玉県および秩父市当局や関係地主に働きかけた。また、小鹿野影森停車場線の巴川橋から先、西側の長尾根峠前後2キロメートルの区間を残して1962年(昭和37年)度に工事が中断されたことから車両通行不能区間となっていたため、橋と並行してその改修についても秩父市が「県道小鹿野-影森停車場線改修促進期成同盟」を結成して県当局に働きかけた。県は市が国道140号から橋までの直線道路を建設することを条件に、県費を以って橋を建設することで採択決定され、旧橋のすぐ上流側の位置に平行して埼玉県内初のニールセンローゼ橋として架けられることとなった。橋は1971年(昭和46年)起工し総工費は4億5400万円をかけて建設され、1974年(昭和49年)9月竣工し、旧橋より付け替えられた。これが現在の巴川橋である。事業主体は埼玉県で、橋の施工会社は三菱重工業(現、三菱重工橋梁エンジニアリング)である。橋種の選定に当たっては秩父の景観にも配慮され、架橋当時としては三重県の生浦大橋(おいのうらおおはし)の橋長197メートルに次ぐ規模のものであり、現地にて製作された橋としては最大のものであった。1972年(昭和47年)春より下部工(橋台)の建設に着手され、1973年(昭和48年)11月より橋桁の施工に着手された。下部工は直接基礎(重力式直接基礎橋台)で、架設工法としてはキャリアケーブルによる斜め吊り工法(ケーブルエレクション工法)が採用され、上弦材が完成後そこから仮の吊索を設置して下弦材の構築を行う工法が用いられた。また、橋の架設に合わせて左右両岸に取り付け道路が整備された。橋の完成後は橋の挙動測定のための載荷試験を行い、梁の曲げ応力度や斜材軸力等の測定を実施し、橋の安全性の検証を行った。橋は前後348メートルの取り付け道路の改修および拡幅整備の遅れから、竣工から開通までに時間を要したが1975年(昭和50年)7月14日開通した。開通式は久那町会主催で同日午前11時より橋の袂にて挙行され、関係者約400名が出席される中行なわれた。式典では神官のお祓いの後、荒船代議士や県知事代理、秩父市長の3人によるテープカットが執り行われ、秩父市指定文化財である久那獅子舞を先頭に三世代家族や関係者による渡り初めが行われた。
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