1960年代 - 4度のリーグ優勝
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「ボカ・ジュニアーズ」の記事における「1960年代 - 4度のリーグ優勝」の解説
1962年シーズン、ボカは歴史に残る劇的な展開を経て8年ぶりとなる優勝を成し遂げた。残り2試合でボカとリーベルは勝ち点で並んでいた。その状況でボカはホームにリーベルを迎えて直接対決をする事になった。優勝に関わる重要な局面でスーペルクラシコをする事になった。この試合、前半14分にボカがPKを得た。それをバレンティンが決めた。このままボカが1点リードして試合はずっと進んだ。そして試合残り時間6分となった時にリーベルにPKが与えられた。そしてボカのゴール・キーパー、アントニオ・ローマがリーベルのデレム(英語版)のPKのシュートを止めて、この危機を免れた。試合はこのまま1-0で終了して、ボカの勝利で終わった。ボカは勝ち点で2ポイント、リーベルを上回り単独首位となった。そして最終節にもボカは勝利して、宿敵リーベルを振り切って優勝を果たした。この1962年のチームにはローマの他にパウロ・バレンティン、アントニオ・ラティン、シルビオ・マルソリーニ、カルメロ・シメオネなどがいた。1963年、ボカはコパ・リベルタドーレスに初参加した。そして決勝まで進んだがペレを擁するサントスFCに敗北した。 ボカは1964年、1965年と連覇を達成した。この連覇のメンバーの顔触れはアンヘル・クレメンテ・ロハスとアルフレッド・ロハスが攻撃陣に加わった以外は1962年優勝した時のメンバーからあまり変わりはなかった。1964年シーズンはプレイ内容が良くなく攻撃陣が不調であったがローマが742分間連続無失点という記録を作った。ボカのシーズン通しての失点は僅か15失点(30試合)で守備陣の活躍が目立ち優勝を果たした。そして翌1965年シーズンはリーベルと接戦となったが、勝ち点1差でかわして最終節で優勝を決めて2連覇を達成した。国際舞台では、ボカは1965年、1966年と2年続けてコパ・リベルタドーレスに参加した。ボカは1965年は準決勝まで勝ち進んだがインデペンディエンテと対戦して敗れた。1966年は準決勝リーグまで勝ち進んだがリーベル・プレートとそしてまたしてもインデペンディエンテに負けて敗退した。 1968年6月23日、メトロポリターノ交流戦グループ第17節、スーペルクラシコとなったエル・モヌメンタルでのリーベル対ボカの試合で、試合終了後に将棋倒しが起きてボカのサポーター71人が死亡するという大惨事が起きた。この事件はアルゼンチン・リーグの歴史の中で最悪のスタジアム事故で12番ゲートの悲劇と呼ばれている。 1969年シーズン、ボカの監督にリーベルの元名選手のアルフレッド・ディ・ステファノが就任した。ライバル・チームの元大スターが監督に就任するという非常に珍しい事が起きた。そして1969年メトロポターノ(アルゼンチン・サッカー協会に直接加盟するチームのみが参加資格のある大会。地方ではアルゼンチン・サッカー協会に直接加盟していないクラブがたくさんある。その結果、このリーグ戦は首都ブエノスアイレス州とその近隣の州のクラブばかりが参加するのでメトロポリターノ《大都会》という名称が付いている)では、アントニオ・ローマが再びリーグ新記録となる782分間無失点記というゴールキーパーの無失点記録を作って大活躍した。しかし、ボカは準決勝ラウンドで敗退した。しかし、同1969年のコパ・アルヘンティーナ(アルゼンチン・カップ)では決勝でCAアトランタを破って優勝した。そして同1969年、ナシオナル(アルゼンチン全土のクラブが参加する大会。年によって違うが大体、4つぐらいのグループに参加チームが分かれてまずリーグ戦を行う。そして各グループの上位チームがプレイオフ進出して決勝トーナメントを行い、アルゼンチン・ナンバー1クラブを決めるという大会。この大会はワールドカップと同じ大会方式である。この大会はメトロポリターノと違い、アルゼンチン・サッカー協会に直接加盟していないクラブにも門戸を開いているオープンな大会である。そのため、地方のアルゼンチン・サッカー協会に直接加盟していないクラブが参加資格のある大会なのでナシオナル《全国》という名称が付けられている)の時に、ここ数年、ボカの守備陣のパフォーマンスは素晴らしかったがナシオナルでは低調であった。そこでディ・ステファノ監督は名手ローマを先発から外すという大胆な決断をした。そしてルーベン・サンチェスを代わりに起用した。他にも先発にラモン・ポンセ、イグナシオ・ペーニャなどを思い切って起用した。するとボカは12試合無敗を達成して好調に首位を走った。そして残り1試合となった状況で2位リーベルと勝ち点差は2ポイントであった。そして、最終節に奇しくもアウェイのエル・モヌメンタルでリーベルと優勝を懸けた直接対決をする展開となった。ボカはこのスーペルクラシコを2-2で引き分けて逃げ切り優勝を果たした。ノルベルト・マドゥルガが2得点を挙げる活躍をした。最大のライバルの本拠地で優勝を決めるというボカにとって歴史に残る痛快な一戦となった。この1969年シーズンは、コパ・アルヘンティナとナシオナルに優勝をして2冠を達成した。このチームにはローマ、アンヘル・ロハス、マルソリーニ、マドゥルガの他にルーベン・スニェ、フリオ・メレンデスなどがいた。 1960年代、ボカはリーベルとの熾烈な優勝争いとなったシーズンは全て制して優勝した。1960年代にボカに敗れて優勝を逃し続けた結果、リーベルは17年間無冠という暗黒時代を過ごす事になった。
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