12番ゲートの悲劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 01:56 UTC 版)
「スーペルクラシコ」の記事における「12番ゲートの悲劇」の解説
1968年6月23日にエル・モヌメンタルで行われたダービー後、両クラブのサポーターが12番ゲートで衝突し、71人が死亡して150人が負傷した。この惨事はアルゼンチンのサッカー史上最悪の出来事となった。死者の大半はティーンエイジャーや若者であり、その平均年齢は19歳であった。この日、実際に何が起こったのかについては、様々な主張がなされた。ボカのサポーターがスタジアムの上層階に火の付いたリーベルの旗を投げ入れ、そのためにリーベルのサポーターが下層階に殺到したとの主張があった。また、リーベルのサポーターがボカサポーターの区画に侵入し、次々とリーベルサポーターがボカの区画になだれ込んだという主張もなされた。さらには、12番ゲートが封鎖されていたか開けられていなかったが、後ろから来たサポーターが「来るな」という声に気付かずに前進したために、前にいたサポーターが圧迫されたという主張もある。かつてリーベルの会長を務めたウィリアム・ケントは、ボカサポーターがスタンドから小便を投げつけた際に、警官隊がサポーターの鎮圧を始めたことが事故の原因だと主張した。入場口の回転式ゲートが大きな鉄の棒で塞がれていたと主張する目撃者もいる。政府の探求により3年間の調査が行われたが、関係者の誰も有罪とはならず、犠牲者の家族を大きく失望させた。この悲劇以降、エル・モヌメンタルの12番ゲートは番号の代わりに文字によって他ゲートと区別されている。1968年シーズン終了後、アルゼンチンサッカー協会に所属する68のサッカークラブは事件で死去した犠牲者の家族のために10万ペソの寄付金を集めた。
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