1960年代後半・日本での量産開始とNゲージの普及
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「Nゲージ」の記事における「1960年代後半・日本での量産開始とNゲージの普及」の解説
海外で9mmゲージが登場してから程なく、日本でもこの規格の鉄道模型を製品化しようとするメーカーが現れた。 1964年頃に 玩具メーカートミー(TOMY:現タカラトミー)が「高級電気玩具 OOO(スリーオー)ゲージ 新幹線 夢の超特急セット」を発売した。新幹線3両編成に線路とパワーパックを加えたセットで、ロンスターの「Treble-O-Lectric」シリーズを参考にした電気玩具だったが、それ以上の展開はなかった。。 1964年8月には音響/通信機メーカーのソニーが鉄道模型専門の子会社マイクロトレーンを設立し、エレクトロニクス技術を生かした鉄道模型の量産を計画した。マイクロトレーン社はソニーマイクロトレーンのブランド名で、線路とパワーパックを開発しサンプルが関係者に配布された。しかし計画は中止となり、マイクロトレーン社は1965年10月末に解散した。 1965年からは「関水金属彫工舎」(現関水金属、KATO)が国鉄C50形蒸気機関車・国鉄オハ31形客車、線路を順次発売した。 採用された縮尺1/150は、機芸出版社の山崎喜陽によって提案されたもので、後に参入したメーカーは、関水金属の規格に倣って日本型製品を設計したため、9mmゲージ・1/150が日本におけるNゲージの事実上の標準規格となった。日本メーカーの9mmゲージ製品が本格的に市場流通したのは、関水金属製品が初めてであり、1965年は、日本におけるNゲージの創始として語られることが多い。 当時日本では、0番ゲージに代わってHOゲージとも呼ばれる16番ゲージが、ようやく鉄道模型の主流となった状況であり、さらに小形の9mmゲージの登場は特異なものとして迎えられた。加藤は、「C50」をグリコのおまけ (キャラメルのおまけ)じゃないかと揶揄され、がっかりしたと当時を振り返っている。その一方、アメリカでの評価は高く、「C50」も海外向けのほうが多く売れた。そのため関水金属は、1968年に出荷されたALCO PA-1と貨車を最初としてアメリカ形Nゲージの製造も開始し、当時の外国メーカーと同様に北米大陸に市場を求め、Nゲージ事業を継続した。 1966年にイタリアのリマ(Lima)が「ミクロモデル(MicroModel)」 のブランド名で参入し、1968年にはイタリアのリバロッシ(Rivarossi)と、アメリカのバックマン(Bachmann)が参入した。 アメリカでのNゲージはローンスターやラピード200のアメリカ型車両の販売によって始まり、以降アメリカの輸入業者が独自ブランドで販売するケースも含めて、ヨーロッパを中心としたアメリカ国外のメーカーによるアメリカ型車輛の製品化もあり普及が進んだ。 参入メーカーの増加に伴い、メーカーによって異なっている連結器(カプラー)を統一する動きが発生し、1968年に、ニュルンベルクのトリックス本社に関水金属など日米欧各国のNゲージメーカー、バイヤーが集まり協議を行った結果、Nゲージカプラーの標準をアーノルトカプラーに統一することが決定された。これ以降各メーカーの連結器は順次アーノルトカプラーに統一された。 1969年、フライシュマン(Fleischmann)も「ピッコロ(Piccolo)」 のブランド名で参入した。1970年代初め、イギリスのグラハム・ファリッシュ(Graham Farish)が縮尺1/148を採用して参入した。1973年にはスペインのイベルトレン(IBERTREN)が参入した。イベルトレン製品は、電気方式に直流三線式を採用しているのが特徴で、1985年までこの方式の製品が供給されていた。
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