1950年代初めの議論とオーベルストドルフでの世界新記録
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「スキーフライング」の記事における「1950年代初めの議論とオーベルストドルフでの世界新記録」の解説
第二次世界大戦後数年間ドイツの選手はプラニツァでのスキーフライングをはじめ、ほとんどのスキージャンプの国際大会から締め出されていた。 1948年、スイスのフリッツ・ツァンネン(Fritz Tschannen)が120.0mの大台に到達し、1941年にルドルフ・ゲーリングが記録した118mを7年ぶりに更新した。義理の兄弟ゼップ・ヴァイラー(Sepp Weiler)はオーペルストドルフの世界で2番目のスキーフライング台(後に主任建築家のハイニ・クロッパー(Heini Klopfer)の名前が冠された)建設に関与した。 クロッパーはオープニング戦の前に、ドイツのスキーフライング台の建設は、"感覚を追うことに戻る意図"に設定することはできず、"スキージャンプ競技の政治的状況の論理的な結論"だったと語った。 オーベルストドルフの街から南に約4kmの地点に1950年2月完成したフライング台はK点が120mで、FISが1936年に基準を定めて以降初めて建設された規格外のジャンプ台であった。。 1950年2月28日から3月6日にかけて第一回国際スキーフライングが開催され、オーストリア、イタリア、スウェーデン、スイス、ドイツの五カ国から選手が参加した。選手は一週間のうちに最低6本の飛行を行い、うちベスト5本の平均飛距離で順位が争われた。初日の2月28日にオーストリアのヴィリ・ガンチュニック(Willi Gantschnigg)が124mの新記録、3月2日にはゼップ・ヴァイラーが127mで新記録、3月3日にはついに130mの大台を突破する。スイスのアンドレアス・デシャー(Andreas Däscher)が130m、ゼップ・ヴァイラーが133m、スウェーデンのダン・ネッツェル(Dan Netzell)が135mを記録した。この大会の優勝者は平均飛距離127.2mのゼップ・ヴァイラーだった。翌1951年の同大会ではフィンランドの19歳タウノ・ルイロ(Tauno Luiro)が139.0mを記録した。 記録の急激な伸びは明らかにスキーフライングの進歩を示していた。第一回スキーフライング週間には延べ17万人の観衆が訪れ、その後の数年間は毎年10万人の観客を集めた。 FISのジャンプ委員長シグムント・ルートは1951年のスキーフライング週間で述べている。"スキーフライングはまだ感覚を少し強調し過ぎる感がある"。更にその弟ビルゲル・ルートは"フライングはスキーの不倶戴天の敵"として非難した。一般人のスキージャンプに対する興味が低下し、フライングはスポーツの興味より賭博的な興味が増すだろうと述べた。 1950年代初頭での議論のもう一つのポイントは、スキージャンプとスキーフライングを区別するかどうかという問題だった。とりわけ、1950年代に現役でプラニツァとオーベルストドルフの両方でジャンプをしたヨーゼフ・ブラドルは、これを否定した。彼は1952年に出版した自伝で次のように述べている。 スキージャンプでは技術的・体力的に整えばだれでも100から120m飛行することが出来る。しかし、このような大ジャンプを完璧に成功させるには気象状況・選手のコンディションが整うことが必要で、それは普通のジャンプよりも稀である。したがって危険性は高い。 このような理由から私はスキーフライングは競技としては不適当であると考える。 しかし、スキーフライングは最高級のスポーツの一つになる責任を負う。 ブラドルやその他の現役選手と対照的に、ラインハルト・シュトラウマンはスキーフライングに空気力学が及ぼす役割のみに注目した。彼は、将来的に、選手が事前に設定した地点を狙って正確に飛ぶ「ターゲットジャンプ」の導入を提案した。また、彼は飛行スラロームについて可能性を検討した。これは、選手は空中で蛇行して飛ばなければならないものである。
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