1943年 - 1945年
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「モンテレー (空母)」の記事における「1943年 - 1945年」の解説
11月19日、モンテレーはギルバート諸島の戦場に到着し、マキン島への攻撃支援を行った。12月25日に第37.2機動部隊の一部としてニューアイルランド島のカビエン攻撃に参加した後、1944年2月8日までクェゼリン環礁とエニウェトク環礁への上陸支援を行う。その後、2月から7月まで第58任務部隊(マーク・ミッチャー少将)と共にカロリン諸島、マリアナ諸島、北ニューギニアおよび小笠原諸島への攻撃を行った。この間に4月29日、30日にトラック諸島とサタワン環礁攻撃を行い、6月19日と20日にはマリアナ沖海戦に参加している。 その後モンテレーはオーバーホールのため真珠湾へ入港し、オーバーホールが終わると重巡洋艦ペンサコーラ、ソルトレイクシティなどとともに第12.5任務群(アレン・E・スミス少将)を構成して8月29日に出港。9月3日にウェーク島に対する攻撃を行い、続いて第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に合流して南フィリピンおよび沖縄への攻撃に参加した。1944年10月から12月まではフィリピン海域で過ごし、10月23日から25日にかけてのレイテ沖海戦では第38.1任務群(ジョン・S・マケイン・シニア中将)に属して戦い、レイテ島の戦いやミンドロ島上陸を支援した。 しかし、その最中の12月18日、モンテレーは台風(コブラ台風)を克服するため苦闘することになる。暴風は100ノットにも達し、2日間の嵐でモンテレーのいくつかの艦載機は固定用のケーブルによって機体が引き裂かれ、格納庫で火災が数件発生した。モンテレーは激浪により船体の動揺甚だしく、8時38分には傾斜が34度に達し、飛行甲板上の戦闘機が海中に落下した。続いて9時10分には爆発がおき火災が発生した。これは格納庫内で、係止索が切れたことで動き出した航空機が別の航空機に衝突したことが原因であった。機械室に消火作業による水が流入し煙も充満したため機械を停止させざるを得なくなり、9時24分にはモンテレーは停止した。このあと再び爆発が発生し、また甲板上でもさらに航空機が落下してその際に20ミリ機銃などに被害が生じた。任務群から脱落していたモンテレーは9時50分には支援部隊に追いつかれてた。苦難のモンテレー警戒のため、重巡洋艦ニューオーリンズおよび駆逐艦トワイニング (USS Twining, DD-540)、マッコード (USS McCord, DD-534) をモンテレー支援艦として派遣された。モンテレーはニューオーリンズと共にウルシー環礁に回航されるはずだったが、このプランは第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将によってすぐに取り消された。火災は10時25分に鎮火した。格納庫内の残骸は過熱されていたため固定することができず、艦を動かすことでによりそれらが動き回って再び火災が起きる危険を避けるため艦長は機関を停止した状態で台風を乗り切ることとした。そうしてモンテレーは台風を乗り切った。この台風の間、モンテレーに配属されていた後の大統領ジェラルド・R・フォードは艦外に吹き飛ばされる寸前であった[要出典]。モンテレーでの人的被害は死者3名、重軽傷者40名であった。モンテレーはオーバーホールのため本国に回航され、1945年1月にワシントン州ブレマートンに到着する。 モンテレーはオーバーホール後第58任務部隊に再合流し、沖縄攻略支援のため5月9日から6月1日まで南西諸島及び九州に対する攻撃を行った。続いて第38任務部隊に合流し、モンテレーの艦載機は7月1日から8月15日まで本州と北海道に対する最終攻撃を行っている。モンテレーはジェラルド・F・ボーガン(英語版)少将の第38.3任務群に属し、7月14日には青函連絡船を攻撃してそのうちの1隻を撃沈。7月24日の呉軍港空襲にも参加した。
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