1929-1956年
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「ローベルト・ヴァルザー」の記事における「1929-1956年」の解説
1929年初め、少し以前から不安と幻覚の症状に苦しんでいたヴァルザーは、精神の虚脱状態に陥ったのち、精神科医の助言と姉リーザの要請を受け、ベルン近郊のヴァルダウの精神病院に入院した。医師の記録には次のように書かれている。「患者は幻聴が聞こえることを認めている」。これを自ら進んでの入院と言うことはできないかもしれない。施設で数週間を過ごしたのち、状態が正常に復したヴァルザーは、引き続きテクストを著述、発表したが、執筆は中断をはさみ、全体量としても、先行する数年にははるかに及ばなかった。 その際、ヴァルザーは引き続き、みずからが「鉛筆書き書法」と名付けた執筆方法で書いていた。すなわち、彼は、ドイツ語筆記体の、末期には1ミリほどの大きさとなったミクログラムと呼ばれる微小文字で詩や散文のテクストを書き、執筆作業の第二段階においてそれを取捨選択、推敲しつつペンで清書した。とはいえ、この時代の草稿はさほど残されてはおらず、清書テクスト、出版テクストの方が多く残っている。1933年に自身の意に反して故郷の州にあるヘリザウの精神病院に移されてはじめて−自身もまた詩人であり浩瀚な作品を出版していた所長のオットー・ヒンリクセン博士(Dr. Otto Hinrichsen)によって「文学活動のための部屋が用意されたにもかかわらず」 −ヴァルザーは書くことをやめたのだが、そこにはおそらくナチ政権が権力を掌握したことでドイツの新聞や雑誌で発表するための基本的市場そのものが消えてしまったという事情も関係していただろう。他の入所者たちと同じように、ヴァルザーは紙袋作りや掃除の仕事に従事した。余暇の時間には好んで娯楽小説を読んでいた。 ヘリザウの精神病院には、1936年以降、ヴァルザーの崇拝者であり、後には後見人ともなるスイス人作家にして芸術支援者カール・ゼーリヒが訪れるようになり、この時期のヴァルザーとの会話について、後に著作『ヴァルザーとの散歩(Wanderungen mit Robert Walser)』で報告している。カール・ゼーリヒは早い時期から、新たに著作を刊行することで、忘れ去られようとしていたヴァルザーを再び著名にしようと力を尽くした。兄カールの死(1943年)と姉リーザの死(1944年)の後、ゼーリヒはヴァルザーの後見を引き受けた。偏屈になってはいたものの、とうに精神病の徴候がなくなっていたヴァルザーは、この時期には施設を離れることを繰り返し拒んだという。 ヴァルザーは長く孤独な散歩を好んだ。1956年のクリスマスの朝、ヴァルザーは雪原を散歩している途上、心臓発作で死に、ほどなくして発見された。雪中に倒れた散歩者の写真はほとんど不気味なほどに、最初の長編小説『タンナー兄弟姉妹』での詩人セバスチャンの死の姿を想起させる。
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