1929-1956年とは? わかりやすく解説

1929-1956年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 05:21 UTC 版)

ローベルト・ヴァルザー」の記事における「1929-1956年」の解説

1929年初め、少し以前から不安と幻覚症状苦しんでいたヴァルザーは、精神虚脱状態陥ったのち、精神科医助言と姉リーザ要請を受け、ベルン近郊のヴァルダウの精神病院入院した医師記録には次のように書かれている。「患者幻聴聞こえることを認めている」。これを自ら進んで入院と言うことはできないかしれない施設で数週間過ごしたのち、状態が正常に復したヴァルザーは、引き続きテクスト著述発表したが、執筆中断をはさみ、全体量としても、先行する数年にははるかに及ばなかった。 その際、ヴァルザーは引き続き、みずからが「鉛筆書き書法」と名付けた執筆方法書いていた。すなわち、彼は、ドイツ語筆記体の、末期には1ミリほどの大きさとなったミクログラム呼ばれる微小文字で詩や散文テクスト書き執筆作業第二段階においてそれを取捨選択推敲しつつペン清書したとはいえ、この時代草稿はさほど残されはおらず清書テクスト出版テクストの方が多く残っている。1933年自身意に反して故郷の州にあるヘリザウ精神病院移されてはじめて−自身もまた詩人であり浩瀚作品出版していた所長のオットー・ヒンリクセン博士Dr. Otto Hinrichsen)によって「文学活動のための部屋用意されたにもかかわらず」 −ヴァルザーは書くことをやめたのだが、そこにはおそらくナチ政権権力を掌握したことでドイツ新聞や雑誌発表するための基本的市場そのもの消えてしまったという事情も関係していただろう。他の入所者たちと同じように、ヴァルザーは紙袋作り掃除仕事従事した余暇時間には好んで娯楽小説読んでいた。 ヘリザウ精神病院には、1936年以降、ヴァルザーの崇拝者であり、後には後見人ともなるスイス作家にして芸術支援者カール・ゼーリヒが訪れるようになり、この時期のヴァルザーとの会話について、後に著作『ヴァルザーとの散歩(Wanderungen mit Robert Walser)』で報告している。カール・ゼーリヒは早い時期から、新たに著作刊行することで、忘れ去られようとしていたヴァルザーを再び著名にしようと力を尽くした。兄カールの死(1943年)と姉リーザの死(1944年)の後、ゼーリヒはヴァルザーの後見引き受けた偏屈になってはいたものの、とうに精神病徴候なくなっていたヴァルザーは、この時期には施設離れることを繰り返し拒んだという。 ヴァルザーは長く孤独な散歩好んだ1956年クリスマスの朝、ヴァルザーは雪原散歩している途上心臓発作死にほどなくして発見された。雪中倒れた散歩者の写真はほとんど不気味なほどに、最初長編小説タンナー兄弟姉妹』での詩人セバスチャンの死の姿を想起させる

※この「1929-1956年」の解説は、「ローベルト・ヴァルザー」の解説の一部です。
「1929-1956年」を含む「ローベルト・ヴァルザー」の記事については、「ローベルト・ヴァルザー」の概要を参照ください。

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