1918年、スペイン風邪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:46 UTC 版)
「インフルエンザの流行」の記事における「1918年、スペイン風邪」の解説
詳細は「スペインかぜ」を参照 鳥インフルエンザの一種と考えられるスペイン風邪は、1918年、アメリカ合衆国の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)となり、感染者は6億人、死者は最終的には4000万人から5000万人におよんだ。当時の世界人口は12億人程度と推定されるため、全人類の半数もの人びとがスペイン風邪に感染したことになる。この値は、感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、もっとも多くのヒトを短期間で死に至らしめた記録的なものである。 死者数は、第一次世界大戦の死者をはるかにうわまわり、日本では当時の人口5500万人に対し39万人が死亡、アメリカでは50万人が死亡した。詩人ギヨーム・アポリネール、社会学者マックス・ヴェーバー、画家エゴン・シーレ、劇作家エドモン・ロスタン、作曲家チャールズ・ヒューバート・パリー、革命家ヤーコフ・スヴェルドロフ、音楽家チャールズ・トムリンソン・グリフスが亡くなっており、日本でも、元内務大臣の末松謙澄、東京駅の設計を担当した辰野金吾、劇作家の島村抱月、大山巌夫人の山川捨松、皇族の竹田宮恒久王、軍人の西郷寅太郎などの著名人がスペイン風邪で亡くなっている。「黒死病」以来の歴史的疫病で、インフルエンザに対する免疫が弱い南方の島々では島民がほぼ全滅するケースもあった。 流行の第1波は、1918年3月に米国シカゴ付近で最初の流行があり、アメリカ軍の第一次世界大戦参戦とともに大西洋をわたって、5月から6月にかけてヨーロッパで流行したものである。第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まって重症な合併症を起こし死者が急増した。第3波は1919年春から秋にかけてで、やはり世界的に流行した。日本ではこの第3波が一番被害が大きかった。 インフルエンザウイルスの病原性については、1931年にアメリカのリチャード・ショープが、ブタにおこるインフルエンザが、プファイファーの発見したインフルエンザ菌とウイルスとの混合感染によっておこることを確認し、1933年に、イギリスのウィルソン・スミスとクリストファー・アンドリュースたちが患者からインフルエンザウイルスを分離し、フェレットを用いた実験によって証明して、病原体論争はおさまった。 さらに、スペイン風邪の病原体の正体は、アラスカの凍土から1997年8月に発掘された4遺体から採取された肺組織検体からやがてウイルスゲノムが分離されたことによって、ようやく明らかとなった。これにより、H1N1亜型であったことと、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであった可能性が高いことが証明された。つまり、スペイン風邪は、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったことが原因と考えられる。したがって、当時の人びとにとっては全く新しい感染症(新興感染症)であり、スペイン風邪に対する免疫を持った人がきわめて稀であったことが、この大流行の原因だと考えられるようになったのである。スペイン風邪におけるおもな死因は二次性の細菌性肺炎であったといわれる。 なお、アメリカ発であるにもかかわらず「スペイン風邪」と呼ばれたのは、当時は第一次世界大戦中であり、世界各国・各地域で諸情報が検閲を受けていたのに対し、スペインは中立国であったため、主要な情報源がスペイン発となったためである。一説には、スペイン風邪の大流行により第一次世界大戦終結が早まったともいわれている。
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