1918年から1932年
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「オルデンブルク自由州」の記事における「1918年から1932年」の解説
大公が廃位された後、労兵レーテはオルデンブルク=オストフリースラント・レーテ共和国の樹立を宣言した。11月11日にはドイツ独立社会民主党のベルンハルト・クーントの下に州総局 (Landesdirektorium) が設立され、1919年3月3日まで存続した。旧州議会は、制憲議会の発足まで州議会としての役割を果たした。 1919年2月にドイツ国政府が介入してクーントは逮捕された。2月23日には制憲議会が発足し、6月に「オルデンブルク自由州憲法」が制定された。6月21日には第一回州議会が開会し、ドイツ社会民主党、ドイツ民主党、ドイツ中央党の3党連立政権である第1次テオドール・タンツェン内閣が発足した。 1919年10月にオルデンブルク秩序警察が設立されて治安維持の面で大きな変化が起きた。秩序警察は反乱鎮圧を目的として設立され、ドイツ国政府から設立資金の80%が供与された。設立後ただちに主要都市であるリュストリンゲン、オルデンブルク、デルメンホルストの警察任務を所管した他、リューベックおよびビルケンフェルトでは領土防衛にあたった。 1920年6月6日の州議会選挙の結果、社会民主党・民主党・中央党とドイツ人民党の連立交渉は行き詰まったが、引き続きタンツェン内閣が政権を担当した。その後、タンツェン内閣は1923年3月28日に州議会の過半数を確保できなかったことから総辞職した。この政権交代はルール占領に対する中央政府のクーノ内閣の抵抗とも関係していた。1923年4月17日に、州議会は無所属のオイゲン・フォン・フィンクを州首相に選出した。フィンクは第1次 (1923年4月17日 - 1925年6月22日)・第2次 (1925年6月23日 - 1930年11月14日) と政権を担当し、続いてフリードリヒ・カセボム (1930年11月14日 - 1932年6月16日) が州首相となった。 1931年5月17日のオルデンブルク州議会選挙ではナチ党が得票率37.2%で州議会第一党となった。
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