専攻分野の拡大
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「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン」の記事における「専攻分野の拡大」の解説
第一次世界大戦の敗戦によって基金の資産は壊滅的な打撃を受けたが、それでもフランクフルト市とプロイセン政府との間で取り交わされた大学の協定は財政的な問題とは無縁だった。大学理事会、およびフランクフルト市と出資者の一族たちが発言権を持っていた会議によって、市と大学側のつながりも確保されていた。1918年から1932年の短い間、大学は大きく花開く時期を迎え、専攻分野が広がるとともに重要な学者が次々に招聘された。1916年にユリウス・ツィーエンがフランクフルト初の教育学の教員に、1919年にはフランツ・オッペンハイマーが全ドイツで最初の社会学教員となり、1930年にはカール・マンハイムがオッペンハイマーの跡を継いだ。1920年には物理学者のフリードリヒ・デッサウアーがフランクフルトに移っており、さらに後のノーベル賞受賞者であるマックス・フォン・ラウエとマックス・ボルンも自然科学専攻の立ち上げに貢献した。カール・ジーゲルも1922年-1938年に教授をつとめており、1964年には大学創立50周年記念の数学セミナーで講演している。 1924年、ヴァイル家の肝いりで社会研究所が創立される。所長には経済学・社会学専攻の教授を兼ねていたカール・グリュンベルクが任ぜられた。1930年にはグリュンベルクの後任として、フランクフルト学派を代表する学者のひとりであるマックス・ホルクハイマーが就任。1932年からは「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学」の名称を冠するようになり、フランツ・ローゼンツヴァイクやマルティン・ブーバーらのユダヤ人学者、福音主義神学のパウル・ティリッヒなどが教壇に立った。 学生の数は1923年までに5,000名以上に増加した。大部分は中流層の出身で、公務員・教師、農業、小地主、商人・自営業主や会社員などの子弟が多かった。ユダヤ人学生の比率も他大学と比較してきわめて高く、キリスト教系学生団体に所属する学生の割合は非常に低かった。1930年には、後に細菌学者となるエミー・クリーエンベルガーが女子学生として初めてフランクフルト大学における教授資格 (Habilitation) 所得者となった。
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