マックス・ホルクハイマーとは? わかりやすく解説

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マックス・ホルクハイマー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 06:41 UTC 版)

マックス・ホルクハイマー
人物情報
生誕 (1895-02-14) 1895年2月14日
ドイツ シュトゥットガルト
死没 1973年7月7日(1973-07-07)(78歳没)
ドイツ ニュルンベルク
出身校 ミュンヘン大学フランクフルト大学フライブルク大学
学問
研究分野 哲学社会学
研究機関 フランクフルト大学社会研究研究所、コロンビア大学
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マックス・ホルクハイマードイツ語: Max Horkheimer1895年2月14日 - 1973年7月7日)は、ドイツ哲学者社会学者

フランクフルト学派の代表で、テオドール・アドルノとの共著『啓蒙の弁証法』で知られる。その他の著書に『道具的理性批判へ向けて』『批判的理論』などがある。アルトゥル・ショーペンハウアーペシミズムへの共感を持つ。

経歴

テオドール・アドルノ(右)とともに、1965年ハイデルベルクにて

1895年、シュトゥットガルト郊外のツッフェンハウゼン(Zuffenhausen)でユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。ギムナジウムに入学するものの中退し、実家が経営する工場で見習いとして働いた。第一次世界大戦に従軍後、1919年にミュンヘンアビトゥーア資格を所得し、ミュンヘン大学フランクフルト大学フライブルク大学で学んだ。1925年にフランクフルト大学で教授資格を得た。1926年に結婚。

社会研究研究所時代

1930年にフランクフルト大学の社会研究研究所ドイツ語版の創設に参加。だが、1933年のナチ党の権力掌握後、1934年にスイスジュネーヴ経由でアメリカ亡命コロンビア大学で教鞭を執った。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後の1949年にまたフランクフルト大学に戻り、同研究所の所長に復帰。同大学学長も務めた。1954年と1959年には再びアメリカに渡ってシカゴ大学でも教鞭を執った。1964年、フランクフルト大学を退職。かつてホルクハイマーによって同大学の教授職につくことを阻まれた、フランクフルト学派第2世代のユルゲン・ハーバーマスが後任の教授となった。

1973年にニュルンベルクで死去し、ベルンのユダヤ人墓地に葬られている。

著作

フランクフルト市内にあるホルクハイマーの顕彰碑

邦訳された著書

  • 『道具的理性批判 第2 (権威と家族)』清水多吉編訳 イザラ書房 1970
  • 『理性の腐蝕』山口祐弘訳、せりか書房 1970
  • 『哲学の社会的機能』久野収訳、晶文社 1974
  • 『権威主義的国家』清水多吉編訳、紀伊國屋書店、1975
  • 『批判的社会理論:市民社会の人間学』森田数実編訳、恒星社厚生閣 1994
  • 『批判的理論の論理学:非完結的弁証法の探求』角忍・森田数実訳、恒星社厚生閣 1998
  • 『理論哲学と実践哲学の結合子としてのカント『判断力批判』』服部健二・青柳雅文訳、こぶし書房 2010
  • 『初期哲学論集』青柳雅文訳 こぶし書房 2014

共編著の邦訳

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脚注





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