1899年ケンタッキー州知事選挙
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「ウィリアム・S・テイラー」の記事における「1899年ケンタッキー州知事選挙」の解説
詳細は「1899年ケンタッキー州知事選挙」を参照 1895年に州知事に選ばれたブラッドリーは、ケンタッキー州の歴史で初めて共和党員として選ばれた者だった。1850年代にホイッグ党が凋落して以来、知事を独占してきた民主党はこれに怒り、失ったものを取り戻そうとしたが、党内の分裂によって紛糾した党大会でウィリアム・ゴーベルを党の公認候補に選んだ。民主党の中で1つの派閥が別の指名大会を開催し、元州知事ジョン・Y・ブラウンを候補に選んだ。 共和党の方も当初は民主党と同じくらい分裂していた。アメリカ合衆国上院議員のウィリアム・J・デボーはテイラーを知事候補に推した。ブラッドリー知事はホプキンス郡のクリフトン・J・プラット判事を推した。ケンタッキー州中部の共和党員は州監査官サム・H・ストーンを推した。テイラーは強力な政治マシーンを作ることができ、候補指名を得る可能性が強いと見られていた。ブラッドリーは党がその候補者の背後に纏まらないことを怒り、大会をボイコットした。テイラーがブラッドリーの甥であるエドウィン・P・モローを州務長官に指名すると約束することで、ブラッドリーを党大会に戻って来させようともしたが、うまく行かなかった。テイラーは州の西部を代表していたので、いわゆる党内の「ユリの白人」派を代表すると考えられていたので、黒人指導者達もテイラーを支持しないと脅した。テイラーは、黒人指導者の1人を恒久的な秘書官とし、もし知事に当選した場合には黒人指導者を入閣させると約束することで、党を1つに纏めようとした。テイラーの指名が有力になると、他の候補者が撤退し、党大会ではテイラーが全会一致で候補者に指名された。 選挙運動中、テイラーの敵対者は、共和党の支持が黒人有権者のものであることと、ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道など大企業と結びついていることを挙げて攻撃してきた。またブラッドリー知事が腐敗した内閣を運営していたとも告発した。共和党はこれに対抗して、民主党は派閥主義に陥っていることと、政治マシーンを使っていると告発することで応えた。特にゴーベルの選挙法については、民衆の意志を弄んでいるとテイラーが主張することで批判した。 元のアメリカ連合国支持者は民主党に取って通常は安全な票田だったが、ウィリアム・ゴーベルが1895年に元南軍の将軍ジョン・サンフォードを決闘で殺していたので、多くがゴーベル支持から離れた。一方で黒人は昔から共和党の安全な票田だったが、テイラーは鉄道施設での人種分離を定めた客車分離法に強く反対しなかったために黒人の多くと疎遠になっていた。 ゴーベルは少数政党候補者のために票を失う恐れがあった。不満を持った民主党員の候補者であるジョン・Y・ブラウンがその1人だったが、他にもポピュリスト党も候補者を立てたので、ゴーベルの人民主義基盤から票を奪う可能性があった。ゴーベルは伝統的な民主党の基盤を纏めるために、ポピュリストと民主党員にとって全国的な英雄であるウィリアム・ジェニングス・ブライアンを説得し、その選挙運動を支援させた。ブライアンが州内巡回を終えるやいなや、ブラッドリー知事がそのコースを逆に辿り、テイラー支持を語り始めた。ブラッドリーはその動機を自分の政権の業績を弁護するためだと主張したが、ジャーナリストのヘンリー・ワッターソンは、テイラーが当選した場合には、将来的にブラッドリーがアメリカ合衆国上院議員の候補になったときにテイラーが支持すると約束したと考えていた。
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1899年ケンタッキー州知事選挙
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「ウィリアム・ゴーベル」の記事における「1899年ケンタッキー州知事選挙」の解説
詳細は「1899年ケンタッキー州知事選挙」を参照 1899年ケンタッキー州知事選挙ではルイビルで開催された党大会で、3人の候補者が指名を求めた。すなわち、ゴーベル、ワット・ハーディン、ウィリアム・J・ストーンだった。ハーディンが有力だとされたときに、ゴーベルとストーンがこれに対抗する共同戦線を張った。ストーンの支持者は党大会の議長にゴーベルが誰を選ぼうとも支持することになった。その代わりにゴーベルを支持していたルイビルの代議員の半数がストーンに投票することになった。その後にゴーベルが撤退するが、他の役員の多くについて公認候補を指名することになっていた。この作戦の噂が広まると、ハーディンはストーンとゴーベルの同盟に勝てないと判断し、指名候補争いから離脱した。 ゴーベルは大会議長としての自分の選択が肯定されたときに、合意を破るリスクを計算していた。ハーディンはストーンが裏切られ、自分が知事候補に指名される可能性が出てきたと判断し、指名争いに再度加わった。混乱した投票が繰り返されたが、誰も過半数を獲れなかった。ゴーベルが選んでいた議長が、次の投票で最下位になった者を切り落とすと宣言した。落とされたのはストーンだった。このためにストーンの支持者は難しい立場になった。鉄道の手先と見られるハーディンを選ぶか、ストーンを裏切ったゴーベルを選ぶか判断を強いられた。その中でゴーベルに付いた者の方が多く、ゴーベルが指名された。ゴーベルの戦術は違法ではなかったが、不人気であり、党を分裂させた。不満を抱いた派閥が自らを「正直選挙民主党」と呼び、レキシントンで別の党大会を開催し、元州知事のジョン・Y・ブラウンを候補に選んだ。 州知事選挙の投票では共和党候補のウィリアム・S・テイラーが民主党候補2人を破ったが、ゴーベルとの票差は2,383票に過ぎなかった。州議会の民主党は幾つかの郡での選挙違反を告発し始めたが、ゴーベル選挙法で創設され、ゴーベルの選んだ民主党員3人の就任した州選挙管理委員会が、2対1の票決で開票結果を肯定した。その意見は郡の公式の結果を覆す法的な権限を与えられては居らず、ケンタッキー州憲法の下で選挙結果を照査する権限は州議会にあるというものだった。その後州議会が共和党に投票された票の多くを無効化し、ゴーベルの当選と決めた。議会の少数派である共和党は激怒し、伝統的に共和党支持だった選挙区の有権者も同様だった。その後の数日間、州内はあらたな内戦の予感で不安定な状態になった。
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