民主党指名大会
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「1899年ケンタッキー州知事選挙」の記事における「民主党指名大会」の解説
1899年ケンタッキー州知事選挙ではルイビルで開催された民主党大会で、3人の候補者が指名を求めた。すなわち、ゴーベル、元州検事総長のP・ワット・ハーディン、元アメリカ合衆国下院議員ウィリアム・J・ストーンだった。ハーディンはマーサー郡の出身であり、ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の後ろ盾があった。ライアン郡出身のストーンは、州内農業関係者が地盤だった。ゴーベルの支持者は概して都市部の有権者だった。党の指名大会が近付いたときは、ハーディンが有力候補だった。ゴーベルとストーンは力を合わせることがハーディンの指名を阻止する唯一の道であることが分かっており、両陣営の代表が1899年6月19日に会して、取引を行った。この会合でゴーベル側の代表だったユーリー・ウッドソンに拠れば、ゴーベル支持だったルイビルの代議員の半分がストーンに投票することで両陣営が協定書に調印したことになっている。両人は、片方が敗れたり撤退した場合は、ハーディンではなく他方に投票するよう代議員に促すことになっていた 。 民主党指名大会はルイビルのマーケット通りにある音楽ホールで、6月20日に始まった。大会で最初のやることは議長を指名することだった。ストーンの支持者オリー・M・ジェイムズがデイビッド・レッドワイン判事を推薦した。ウッドソンがレッドワインを支持した時に、ストーンとゴーベルの間の取引が誰の目にも明白になった。ハーディンの支持者はウィリアム・H・スウィーニーを推薦したが、ストーンとゴーベルの同盟でレッドワインを選出した。幾つかの郡の代議員の中身について異議申し立てが成された。これらの取扱は資格審査委員会によって決められることになった。この委員会もハーディン不利に構成された。13人の委員のうち、ハーディン支持者は4人だった。資格審査委員会の長引く検討によって代議員達は我慢できなくなり、代議員であろうとそうでなかろうと数百人の人々が音楽ホールに入って大会を妨害しようとした。レッドワインが秩序を保つためにホール内にルイビル市警察を呼び入れたとき、ハーディンの支持者達はレッドワインが威嚇戦術を使っていると言って非難した。資格審査委員会が報告書を提出したのは6月23日だった。代議員に問題があると検討された28件のうち、26件はゴーベルあるいはストーン支持者に有利なように裁定された。 翌24日に正式な指名手続きが始まった。ハーディンはごまかされているかのように感じており、指名争いからの撤退を考慮したが、その忠実な代議員がハーディンへの投票を続けていた。代議員のジョン・ストックデール・レイがストーンを推薦した。ストーンは、ゴーベルとの合意に基づき、ハーディンが撤退した場合に、ゴーベルがその代議員にストーンへの投票を指示し、党の纏まりを維持することになると信じていた。別の代議員がゴーベルを推薦したときに、その諒解が崩れた。ルイビルの代議員が事前の合意に基づいてストーンとゴーベルの間で分かれるのではなく、ゴーベルに投票したときにさらにストーンの怒りが増した。ストーンの支持者の中にはその報復のためにハーディン支持に回った者もいた。ハーディンはストーンとゴーベルの同盟が破綻したことを見て取り、撤退の考えを捨てた。その後も何度か投票が繰り返され、6月24日夜の時点で各候補者が投票総数の約3分の1ずつを得票するという状態で、大会は暗礁に乗り上げていた。日曜日の6月25日には検討が行われず、6月26日月曜日に再度代議員が集まったとき、ホールはレッドワインの要請に応えた警官で埋まっていた。レイが威嚇を避けるために警官の排除を要請したが、レッドワインはその動議を却下した。別の代議員がレッドワインの判断に異議を出し、議会運営規則に違反していると訴えたが、レッドワインはその動議も却下した。レッドワインの明らかに偏見に基づく判断に怒ったストーとハーディン側の代議員は、笛を鳴らし、歌を歌い、叫び声を上げ、椅子の上に立ち上がって大会を妨害しようとし始めた。投票が行われたが、多くの代議員は何が起こっているか耳に入らず理解できなかったので、投票を棄権した。投票が以前と同じように終わったとき、議長はゴーベルが多数の投票を得たと宣言したが、ゴーベルは代議員数の絶対多数を得た時のみに候補指名を受諾するとレッドワインに伝えさせた。その後の投票の試みは同じように妨害され、その日の会合は休会になった。 6月27日朝、ホールの中は秩序が保たれていた。ストーンとハーディンはどちらも大会の無期延期を要求した。この時もレッドワインはその動議を却下し、その後の判断に対する不満も却下した。ストーン側とハーディン側の指導者達は、前日に行ったような議事進行妨害を行わず、大会の決定に従うと宣言した。投票が進行する中で、ストーンとハーディンはゴーベルに対する同盟を結成しようとしたが適わず、その後も24回の投票で膠着状態に変わりはなかった。そこで代議員達が次の投票で3位になった者を落とすことに同意し、落とされたのがストーンだった。以前はストーンとゴーベルの間で分かれていた都市部の票が全てゴーベルに行くことになり、一方でストーン票だった州西部の田園部票がハーディン支持に回った。投票結果は相変わらず接戦だったが、アルファベット順の点呼投票が進むと、ゴーベルはストーンのユニオン郡代議員を確保し、それで指名を獲得した。その投票後、ハーディンとストーンの指導者達がゴーベル支持の誓約を求めたが、適格条件でそうした者もいた。副知事候補についてはJ・C・W・ベッカムを選んだが、この時点でベッカムはまだ29歳であり、知事になる場合の法定資格である30歳に達していなかった。副知事候補に選ぶ者は出身郡の票を自分に持ってきてくれることを期待されたが、ベッカムが生まれたネルソン郡は既にハーディンに肩入れしており、政治ボスのベン・ジョンソンに支配されるところ大だったので、ゴーベルはベッカムを選ぶことを躊躇した。ゴーベルの同僚がベッカムならばゴーベルの抱く改良政策に忠実になると言って説得した。他の指名候補としては、元南軍軍人のロバート・J・ブレッキンリッジ・ジュニアが州検事総長の候補になった。この指名によって党内にいる元南軍関係者を宥めることになった。ゴーベルの父は北軍のために戦ったという因縁があった。しかし、ブレッキンリッジ・ジュニアの兄弟で元下院議員のW・C・P・ブレッキンリッジに民主党候補を支持するよう説得するには不十分だった。
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