民主党大統領候補指名争いへの出馬
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「テリー・サンフォード」の記事における「民主党大統領候補指名争いへの出馬」の解説
サンフォードはデューク大学学長である時代を楽しんでいたが、それでも政治的な野心は抱いていた。1972年アメリカ合衆国大統領選挙の予備選挙のシーズンになると、民主党側の候補者が弱いと感じた幾人かの人々からサンフォードにアプローチがあった。この頃のアラバマ州知事ジョージ・ウォレスは人種差別主義者であり、その見解は南部の意見を代表してはいないことを示すために、ウォレスに挑戦することについて特に敏感になっていた。サンフォードは3月8日に指名争いに立候補することを表明したが、混戦の中であまり見込みは無かった。予備選挙で代議員の過半数を獲得することはできないと分かっており、党大会が膠着状態になった場合に、妥協の候補者として浮上するだけの票を確保することを期待した。しかし、ノースカロライナ州の予備選挙であっても、ウォレスがサンフォードに10万票以上の差をつけ、7月の党大会では78票のみでやっと5位に終わった。1位はジョージ・マクガヴァンの1,864.95票、2位はヘンリー・M・ジャクソンの525票、3位がウォレスの381.7票、4位がシャーリー・チザムの151.95票だった。 しかしサンフォードは怯むことなく、その2年後には1976年の選挙に向けて民主党の指名を得るための準備を始めた:396–400。1975年6月1日に指名争いに立候補することを表明し、デューク大学学長として責任を果たしながら、選挙運動を進めて行った。教育分野では少なからぬ支持を獲得したが、新年までに選挙のために満足のいくテーマが見つからなかった。1月にマサチューセッツ州で運動を行っている間に胸に激しい痛みを感じ、診断の結果は心雑音だとされた。1月25日、サンフォードは予備選挙から撤退したが、この年民主党員で撤退した最初の候補者となった:396–416。
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