デューク大学学長
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「テリー・サンフォード」の記事における「デューク大学学長」の解説
1969年、サンフォードはデューク大学学長となり、その後の16年間この役職を続けた。このことで学長としての任期の初期に、ベトナム戦争に関する学生の騒動を沈めることに貢献した。1970年、オハイオ州ケント州立大学で起きた射殺事件への抗議運動に対して、寛容さで臨み、道路を明けるために警官を呼ばないことにした。これで抗議していた学生はその夜に自室に戻り、西キャンパスは翌日に開けることができて、この春の騒動の間もキャンパスの平穏を保つことができた:259。サンフォードが就任する直前の1969年2月13日、アフロアメリカン協会の学生60人がデューク大学の主管理センターであるアレン・ビルを占拠し、ブラック・スタディーズ・プログラムの創設を要求した。警官との衝突が起きた3日後の2月16日、学校の役員がそのプログラムに合意した後で、学生たちは平和裏に建物から退居した。サンフォードの任期中、対立を避ける政策を維持し、警官の重大な行動を選ぶことに反対し、人種問題の解決を推進した。 サンフォードが学長だった間に恐らく最も大きな議論を呼んだのは、デューク大学に元大統領リチャード・ニクソンの大統領図書館を設立させようとしたことだった。1981年7月28日、ニューヨーク市の元大統領の事務所を訪問したときに、ニクソンにこの提案を行なった。サンフォードはそれに続く期間も多くの問題についてニクソンの助言を求めた。8月半ばには図書館の提案が公表され、大学でかなりの論議を呼んだ。サンフォードはその提案について幾らか支持を得たが、教授陣の大半は提案に反対であり、その図書館が研究の中心というよりもニクソンへの記念碑というものなるというのが心配されたところだった。サンフォードは妥協案を画策したが、デューク大学学術委員会の図書館に関する提案はニクソンが望んだもの3分の1の大きさしかなく、それに付属するニクソン博物館は拒否していた。最終的にニクソンがサンフォードの提案を辞退し、図書館を建てる場所として、生まれ故郷のカリフォルニア州ヨーバリンダ市を選んだ。ニクソン大統領図書館は1990年に開館された:369–396, 417–432。 サンフォードの遺産はデューク大学を辞めた後も、男子バスケットボールチームの輝かしい成果もあって、しばらく続いた。1980年、サンフォードは運動部支配人トム・バターストが、バスケットボールのブルーデビルスのコーチにマイク・シャシェフスキーを雇うことを決裁した。シャシェフスキーは5度(1991年、1992年、2001年、2010年、2015年)チームを全国選手権優勝に導き、4強に残ったのは12度、アトランティック・コースト・カンファレンスでも13回優勝した。デューク大学を率いた35のシーズンで945勝251敗であり、NCAAディビジョンIでの通算勝利数は1,018勝と、過去最高記録を更新している。
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