1893年–1914年
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「アメリカ合衆国の外交史」の記事における「1893年–1914年」の解説
1893年初期、ハワイの財界が女王リリウオカラニを退位させベンジャミン・ハリソン大統領にアメリカによる併合を求めた。ハリソンはこれを認めアメリカ合衆国上院にその批准を求めた。しかし次の大統領グロバー・クリーブランドは併合提案を撤回した。それでもハワイにおける革命によって独立したハワイ共和国が作られた。ハワイ共和国は1898年に自発的にアメリカ合衆国に入り、その市民権を得た。 1800年代の終わり近く、アメリカ合衆国は新しい海洋技術を導入して蒸気力駆動の戦艦に強力な武装と鋼製装甲を施させた。その戦艦USSメインがキューバのハバナ港で原因不明で爆発し、イエロー・ジャーナリズムの下で運営される新聞が戦争熱を駆り立て、スペインを戦艦喪失の責任を問うて非難した。1898年4月から7月まで4ヶ月にわたった米西戦争は「スペインの世界帝国を実質的に終わらせる短期間で激しい戦争」だった。アメリカ合衆国はキューバ、プエルトリコ、フィリピンおよびグアムに新しい領土を得た。これがアメリカ合衆国を地域の国から世界の強国へ転換させる契機になった。アメリカ海軍は1880年代に始まっていた近代化計画のお陰で大きな海軍国として浮上し、アルフレッド・セイヤー・マハン艦長の言う海上権力史論を採用した。陸軍は小さいままだったが、セオドア・ルーズベルト政権で近代化路線を認められ、西部に点在していた砦への注力は終わった。米比戦争はフィリピンにおける暴動を短期間で抑圧し、アメリカによる諸島支配が始まった。しかし、1907年までにアジアへの入り口としてのフィリピンに対する興味は薄れ、パナマ運河に対する興味が強くなって、アメリカ合衆国の外交政策はカリブ海に焦点が移った。1904年、ルーズベルトはモンロー・ドクトリンに対するその「ルーズベルト命題」を発表し、西半球におけるラテンアメリカ諸国が民主主義と白人アングロ・サクソン文明の恩恵をもたらすときに無能で不安定である場合はアメリカ合衆国が干渉すると明らかにした。これによってラテンアメリカにおけるヨーロッパの影響力を弱らせ、アメリカ合衆国の地域宗主国としての地位を確立した。 1910年にメキシコ革命が勃発し、半世紀に及んだ国境の平和を終わらせて緊張関係が高まり、メキシコの革命派がアメリカの実業界を脅したので、数十万人の人々が北に逃れた。ウッドロウ・ウィルソン大統領は軍事介入してメキシコを安定させようとしたが失敗した。第一次世界大戦中の1917年に、アメリカがドイツに宣戦布告した場合にメキシコにアメリカに対する宣戦布告を行うよう求める「ツィンメルマン電報」に対してメキシコが拒否した時、両国の関係は安定し、メキシコに対する干渉も無くなった。ニカラグアのような他の小さな国に対する軍事干渉はあったが、1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領が「良き隣人」を宣言してそれも終わった。これはそれらの国の専制政治をアメリカに認知させ友好関係を築くことになった。
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