1893年 - 1910年
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「ダーダーサーハバ・パールケー」の記事における「1893年 - 1910年」の解説
1893年、ガッジャールから大学内の写真スタジオと研究室の使用を許可されたパールケーは、「シュリ・パールケーズ・エングレービング&フォトプリンティング」と名乗り仕事を始めた。パールケーは様々な技術に精通していたものの仕事に恵まれず、収入を得られない家庭は困窮していた。このため、彼は1895年にプロの写真家になることを決め、ゴードラ(英語版)に移住した。しかし、同地でも仕事が軌道に乗らず、さらに1900年に流行した疫病で妻子を喪っている。妻子と死別後、パールケーは再びヴァドーダラーに戻り仕事を続けたが、「カメラに撮影されると魂が抜き取られる」という俗説が街中に広まっていたため、事業は軌道に乗らなかった。この俗説は王族にも広まっており、パールケーはガーイクワード家の王子を撮影しようとした際、「魂を抜き取られ短命になってしまう」として撮影を拒否されたことがある。王子は最終的に写真のメリットを訴え続けたパールケーの意見を聞き入れたが、彼の仕事を支援することはなかった。パールケーは新たに舞台の幕の柄を描く事業を始め、この仕事をきっかけに演劇製作の基礎的なトレーニングを受け、さらに舞台で端役に起用された。 このころ、パールケーはヴァドーダラーに巡業に来ていたドイツ人奇術師から手品を学び、この経験は後に映画製作でトリック写真を用いる際に役立った。1901年末、彼は「ケルファ教授(Professor Kelpha)」の名前を逆にした「パールケー(Phalke)」の名前を名乗り、奇術の公演を主催した。1902年にキルロスカル・ナータク・マンダリ経営者の姪ギリジャ・カランディカルと結婚し、彼女は名前を「サーラスワティ」に改名した。1903年にインド考古調査局の写真家・製図家に起用されるが、仕事内容に満足できなかったため1906年に辞職し、R・G・バンダルカル(英語版)を共同経営者に迎えてロナヴラ(英語版)に「パールケー・エングレービング&プリンティング・ワークス」を設立した。同社は主にラヴィ・ヴァルマが所有する絵画の複写を手掛けていたが、その後は網点のブロック作成や3色印刷などの作業も手掛けるようになった。事業の拡大に伴い拠点をボンベイに移転し、1908年後半からはバンダルカルに代わりプルショータム・マヴジが共同経営者になり、社名を「ラクシュミー・アートプリンティング・ワークス」に改名した。1909年にパールケーはドイツ帝国を訪れ、作業に必要なカラー印刷機を購入した。事業は飛躍的な成長を遂げたが、次第にマヴジと経営方針の相違が目立つようになりパートナシップを解消している。
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