1892年のチャクリー改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:51 UTC 版)
「タイの地方行政」の記事における「1892年のチャクリー改革」の解説
チャクリー改革においてラーマ5世は劇的な地方行政改革を行った。1892年にはまず省庁の大幅な再編成が行われている。ラーマ5世の異母兄弟であり地方行政改革の立て役者であるダムロン親王はこの大編成まで北部省(マハートタイ)に就任していたが1894年には南部省(クラーホーム)が廃止されたことにより北部省が内務省に格上げされ、ダムロンも地方行政の最高責任者となった。 ダムロンは1893年、モントン制の整備を開始。モントンとは省、あるいは州と訳される。モントンは内務省の下にある行政区分で、モントンにはモントン長(テーサピバーン)が置かれ、中央政府により派遣された省庁が置かれた。この地方のモントン化は徐々に行われ、モントン制が正式に取り決められたのは1897年のことであるが、ダムロンはそれまでにモントンの下の行政区分の整備も行っている。前述のムアンはモントンの下の行政区分として位置づけられ、その下に現在まで続く、アムプー(郡)、タムボン(町)、ムーバーン(村)が置かれた。 この中央集権化の過程において一部では半独立のステータスを保持していた地方のムアンにおける独立運動も勃発した。独立運動で有名な場所として南部のパタニ王国やナコーンラーチャシーマー県(イーサーン)の自称王による王国の樹立、北部のパヤオ王国の反発などである。これらは後々タイからの分離独立を主張するようになった地域であり、北部およびイーサーンではタイ国共産党の勢力の浸透が見られ(現在沈静化)、旧パタニ王国地域である深南部三県では20世紀末期にイスラム原理主義思想が流入し、21世紀に入っても武力衝突が続く結果になっている。 1916年以降はムアンにおける領域と県庁所在地の違いを明確にするために、ダムロンはムアンの領域全体に対してはチャンワット(県)、県庁所在地はアムプーであったことからアムプームアンという位置づけが行われた。 1915年ダムロンはラーマ6世(ワチラーウット)との不仲により政界を引退する。一方で、地方政治の全権を掌握したワチラーウットはパーク(地方)の概念を提示した。パークは複数のモントンを抱える地域でタイ国内で4個所(北部地方、中部地方、南部地方、イーサーン地方)設けられた。パークにはワチラーウットから任命された副王(ウッパラートあるいはウパラージャ(英語版))が派遣され行政を行った。しかし世界恐慌と無計画な財政政策により財政難に陥っていたタイ政府は1925年にパークを解体した。このとき同じく財政難からいくつかのモントンも融合されている。
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