1893年恐慌と共和党優位の復活
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「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1893年恐慌と共和党優位の復活」の解説
1893年恐慌の発生と、これに誘発された1894年の炭鉱や鉄道労働者の暴力的なストライキ(プルマン・ストライキ(英語版))の頻発に民主党政権は大打撃を受けた。この結果、1894年アメリカ合衆国下院選挙(英語版)では共和党が結党以来最大の地すべり的勝利を収め、進歩主義時代(政治モデルとしては第四政党制時代)の始まりを告げた。この時代の大統領はほぼ共和党によって占められ、例外は唯一、民主党のウッドロウ・ウィルソン(在任1913〜21年)だけだった。 1896年の大統領選挙では、状況は共和党優勢ではあったが、金本位制維持を主張する共和党候補のウィリアム・マッキンリーに対し、銀貨鋳造自由化を唱える雄弁な民主党候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンが激戦を繰り広げた。この選挙では現代に通じる新しい選挙戦略が多く用いられ、選挙の歴史において画期とみなされている。マッキンリーは高率の保護関税こそが1893年恐慌以来の苦境を終わらせられると主張し、共和党はすべての人々に利益をもたらすという、ある種の多元主義的政策を約束した。マッキンリーは多元主義を唱え、繁栄はすべての民族集団や宗派集団によって享受されなければならないと主張した初めての大統領だった。彼は民主党候補のブライアンを危険な急進派であると攻撃し、その主張である「銀貨鋳造自由化」及び銀16対金1の比率での金銀複本位制計画は経済を崩壊させると非難した。マッキンリーの主要な支持基盤は金融業界、鉄道業界、産業界および中産階級で、「企業の党」として党をしっかりとまとめあげた。マッキンリーの選挙対策委員長(英語版)であるオハイオ州のマーク・ハンナは企業献金を集めるための入念な計画を立案し、ブライアン陣営よりはるかに多い資金を集めた。 共和党による進歩主義政策は、州や地方レベルでも推進された。最初の改革派市長として注目すべきヘイゼン・S・ピングリー(英語版)は、デトロイトの市長を1890年から97年まで務め、96年にはミシガン州知事に選出された。ニューヨーク市では共和党と無所属の改革主義者が協同してタマニー・ホール市長に立ち向かい、セス・ロウ(英語版)(在任1902-03年)を選出した。サムエル・M・ジョーンズ(英語版)は、初め、1897年に共和党候補としてトレド市長に選ばれたが、次の選挙では党から指名を拒否されたため、無所属として再選された。共和党所属の自治体首長の多くは、マーク・ハンナの範に従い、全国市民連合(英語版)の活動に積極的に関わり、都市での改革を推進し、経済に悪影響を及ぼすストライキを回避しようとした。
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