1894年から1914年
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「ブリュッセル新大学」の記事における「1894年から1914年」の解説
ブリュッセル自由大学の事務総長 (conseil d’administration) は、学長 (recteur) のエクトル・デニ(フランス語版)が招聘したアナキストの地理学者エリゼ・ルクリュの受け入れに反対した。この事件が契機となって、1919年まで続くことになった大学の分裂が起こった。大学当局の姿勢に対し、一部の自由主義的な、あるいは、社会主義的な教員たちが先頭に立って、ブリュッセル自由大学の態度に抗議し、ルクリュの講義が地元のフリーメイソンのロッジ(英語版)であるル・アミ・フィラントロプ(フランス語版)で行われるようにした。 程なくして、自由大学当局の態度についての議論が続く中で、「新しい」大学を創ろうという少数のグループが現れた。この集団は、「ジャンソン・コミュニティ (Comité Janson)」と称されるようになり、ポール・ジャンソン、エドモン・ピカール、ギョーム・ド・グレーフ、エリー・ランボット、エミール・ヴァンダーヴェルデ、ジャック・デ・クレッソニエール、シャルル・デジョンから成り、高等教育を行う私立学校 (l'Ecole Libre d'Enseignement Supérieur)、すなわちブリュッセル新大学 (Université Nouvelle de Bruxelles) を創設するという計画を練った。この新たな教育機関は、1894年10月25日に開校し、ミミメ通り13番地 (13 de la rue des Minimes) にあった、かつてのテオドール・フェアハーゲン(フランス語版)の屋敷で授業を始めた。 ベルギー政府は、この新大学が学生たちに授与する卒業証明などを公認せず、資金は急速に失われていった。教授たちは給金を受けられず、受け取ったとしても僅かな額にとどまった。 1898年3月18日には、ルクリュによって、地理学講座が新大学に設けられた。
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