1895年州知事選挙
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「ウィリアム・O・ブラッドリー」の記事における「1895年州知事選挙」の解説
ブラッドリーは1895年州知事選挙で共和党候補になることを早くから宣言し、共和党の指名大会まで実際に挑戦者が現れなかった。その結果、ブラッドリーは比較的和気藹々とした大会で指名された。選挙運動での主要問題は、この国が金本位制に基づく金融制度を維持するか、あるいは16対1の比率で銀貨幣の鋳造、いわゆる自由銀を認めるかということだった。共和党はその大会で金本位制をはっきりと支持するという綱領を採択していた。 民主党は金融問題で分裂した。最終的な候補者パーカー・ワトキンス・ハーディンは自由銀の支持者であると知られていたが、ハーディンは党がどのような綱領を採択しようともそれに従うと誓った。その綱領は金と銀の問題について曖昧なものだった。金本位制を支持するグロバー・クリーブランド大統領とその財務長官でケンタッキー州出身のジョン・G・カーライルを称賛し、1892年民主党全国綱領を裏書きしていた。多くの者はこの綱領が金本位制を支持していると考えたが、オリー・M・ジェイムズのような自由銀支持者は1892年民主党全国綱領が自由銀を支持していると主張していた。その結果、自民党員の大半はその公認候補が金融問題でどちらの立場に立つかを知らないままで大会会場を後にすることになった。 選挙運動は1895年8月19日にルイビルで始まった。ハーディンは最初の演説で自由銀に対して正面からとり組み、選挙運動の残り期間も党の分裂状態を示していた。ブラッドリーは1887年にバックナーに対抗して行った選挙運動での議論を再開した。民主党による州政府の管理ミスを告発し、その証拠としてテイトの横領を挙げた。ハーディンがテイトと親交があったことも強調した。テイトが失踪した時にハーディンは州の検事総長であり、2人は友人だった。ブラッドリーは自由銀を非難し、再度高い保護関税を要求した。1893年恐慌が起きた後であり、全国的な不況についてクリーブランド民主党大統領の責任を追及した。 ホプキンスビルで開催された3回目の討論会で、ハーディンは金融問題に関するブラッドリーの攻撃に反論し、共和党員を知事に選んだ場合は州を「黒人が支配する」ことになると発言した。このことはブラッドリーにとってもディレンマだった。党に対する黒人の影響力を認めるのを拒否すれば、その票を失うことになる。それを認めれば、白人の多くの票を失う恐れがあった。ブラッドリーはホプキンスビルや次の2回の討論会での人種問題を無視し、金融問題についてハーディン批判を強め、テイトとの交友を追求しようとした。8月30日にエミネンスで開催された6回目の討論会で、前回から声が嗄れてきていたブラッドリーにヤジを飛ばす者が出てきた。ブラッドリーは演説を始める言葉を4回発言しようとした後で、壇上から降り、翌日にはこの事故の結果として今後は合同討論会に参加しないと宣言した。多くの者はブラッドリーが人種問題を交わすために、討論会を終わらせる理由を探していると考えた。エミネンスでの事件がその機会を与えた。黒人共和党員の中にはブラッドリーが人種問題を避けていることに不満を抱き、仲間の黒人にブラッドリーを支持せず、ポピュリスト党のトマス・S・ペティットを支持するよう奨励した者もいた。 投票では、ブラッドリーは金本位制支持民主党員の多くの票を得た。また、反移民、反カトリックの組織であるアメリカン保護協会の見解に同調的な者の票も多く集めた。ルイビルだけでこの組織の会員は14,000人いるという推計もあった。パデューカ、レキシントン、アシュランド、コビントン、フランクフォートといった都市部でも力を持っていた。民主党は全国的な経済問題や、州内の厳しい干ばつなど経済要因でも不利だった。ブラッドリーは172,436 票を獲得し、163,524 票に留まったハーディンを破って、ケンタッキー州では初の共和党知事になった。ポピュリスト党のトマス・S・ペティットは16,911 票を獲得しており、その大半は州西部の民主党票だった。この選挙の投票率は85%だった。18の郡では潜在的な有権者以上の数が登録され、そのうち9郡がブラッドリーに、9郡がハーディンに行った。
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