1896-1903: アイゼナハ車両製作所 (Fahrzeugfabrik Eisenach)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:46 UTC 版)
「アイゼナハ車両製作所」の記事における「1896-1903: アイゼナハ車両製作所 (Fahrzeugfabrik Eisenach)」の解説
アイゼナハ車両製作所(FFE)時期 1896-1903 (7年間) 会社名 アイゼナハ車両製作所(Fahrzeugfabrik Eisenach; FFE) 工場名 同上 リーダー ハインリッヒ・エアハルト(Heinrich Ehrhardt) ブランド ヴァルトブルク アイゼナハはドイツのほぼ中央に位置する都市である。ドイツが東西に分裂していた時代は東ドイツに属していたが、その西側は西ドイツに隣接していた。その昔は神聖ローマ帝国の領邦の一国、ザクセン=アイゼナハ公国であったが、1741年にザクセン=アイゼナハ公のヴィルヘルム・ハインリヒが死去すると、ザクセン=ヴァイマル公国との同君連合によってザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国となる。1871年1月18日にドイツ国の一部として統一され、1877年に国号をザクセン大公国(Großherzogtum Sachsen)に改めた。 アイゼナハ車両製作所の由来は、アイゼナハにハインリヒ・エアハルト(Heinrich Ehrhardt:1840年-1928年)が兵器製造工場を設立したことに始まる。アイゼナハ車両製作所(Fahrzeugfabrik Eisenach AG: FFE AG)は1896年に建設され、当初は大砲と自転車を製造した。アイゼナハには、町の起源であり現在はユネスコの世界遺産である美しい古城・ヴァルトブルク城があることから、ブランド名は、ヴァルトブルク(Wartburg)とされた。 1898年、FFEはフランスの自動車製造企業・デコヴィル(Decauville)社とライセンス生産の契約を結び自動車製造業に参入し、「ヴァルトブルク」ブランドで生産販売した。これによりFFEは、ダイムラー、ベンツに次いでドイツで三番目の自動車製造業者となった。車は2種類あり、4HP空冷もしくは5HP水冷の2気筒エンジン、およびトランスミッションは2速または3速だった。1899年に世界初の国際モーターショーがベルリンで開催され、FFE社もこれに出展した。このときの販売数は10台足らずだったという。 会社はさらに技術に力をいれ、世間の評価も高まり、会社の株も三倍に上がった。主に息子のグスタフ・エアハルトが工場を取り仕切っており、従業員1300人規模のテューリンゲン地方有数の企業となっていた。ところが、FFE社は1903年にすでに財政に問題を抱えるようになり、エアハルトと彼の息子は会社を去る。エアハルトは故郷のZella-Mehlis(テューリンゲン州)に「エアハルト・アウトモビルAG(Ehrhardt-Automobil AG)」を設立し、新会社でデコヴィル社のライセンス生産を継続した。
※この「1896-1903: アイゼナハ車両製作所 (Fahrzeugfabrik Eisenach)」の解説は、「アイゼナハ車両製作所」の解説の一部です。
「1896-1903: アイゼナハ車両製作所 (Fahrzeugfabrik Eisenach)」を含む「アイゼナハ車両製作所」の記事については、「アイゼナハ車両製作所」の概要を参照ください。
- 1896-1903: アイゼナハ車両製作所のページへのリンク