1896年 – 1902年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:14 UTC 版)
「レフ・トロツキー」の記事における「1896年 – 1902年」の解説
ニコラーエフ(現在のムィコラーイウ)に移動したあとの1896年に、レフは革命活動に関わり始めていた。学生時代に初めてマルクス主義に触れたレフは共産主義運動に加わった。当初ナロードニキ(narodnik)のレフがマルクス主義を紹介されたその年は、当初はその思想に反対していたが、流刑と投獄の時期に徐々にマルクス主義者となっていく。1897年の早期に、レフはニコラーエフにて数学の学位を追求する代わりに南ロシア労働者同盟の組織化を手伝い、幹部として働いた。レフは「リヴォフ」という名前を用いて小冊子と声明を印刷し、革命の小冊子を配布して工員や革命学生たちのあいだで社会主義の考えを大衆化させた。1898年1月、レフを含めたメンバー200人が逮捕され、裁判を待つのに2年費やした。懲役刑2年を受けたレフはオデッサに収監された。投獄から2ヶ月後、新しく結成されたロシア社会民主労働党の初の会議が開かれた。以来レフは、自分自身を党の一員であると見なすようになった。レフは仲間のマルクス主義者のアレクサンドラ・ソコロフスカヤ(Aleksandra Sokolovskaya)と獄中結婚し、刑に服しているあいだに哲学を勉強した。トロツキーという姓は、最初の革命でオデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである。 1900年、トロツキーはシベリアのイルクーツク地域のウスチ・クート(Ust-Kut)とヴェルホレンスク(Verkholensk)に4年間流刑の判決を受けた。彼は同地で、ニーナ・ネヴェルソンとジナイダ(ジーナ)・ボルコヴァ(Zinaida Volkova)という2人の娘を儲けた。シベリアでのトロツキーは、1898年と1899年に多数の党員たちが逮捕・殺害されたことで、党内で争いがあったことに気付いた。「経済学者」として知られている一部の社会民主主義者は、「産業労働者の生活の向上の尽力に重点的に取り組むべきである」と主張し、他の者たちは「君主制の打倒と、よく組織化され、規律を守る革命党がもっとも重要である」と主張した。後者は1900年に創立されたロンドンに本拠地を置く機関紙『イスクラ』を統率していた。トロツキーはすぐにイスクラの見解を支持した。2年後の1902年の夏、トロツキーはシベリアから逃亡した。
※この「1896年 – 1902年」の解説は、「レフ・トロツキー」の解説の一部です。
「1896年 – 1902年」を含む「レフ・トロツキー」の記事については、「レフ・トロツキー」の概要を参照ください。
- 1896年 – 1902年のページへのリンク