1888年の噴火とは? わかりやすく解説

1888年の噴火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 23:38 UTC 版)

磐梯山」の記事における「1888年の噴火」の解説

詳細は「1888年の磐梯山噴火」を参照 1888年明治21年7月15日水蒸気爆発により、小磐梯山体崩壊起こし発生した爆風岩屑なだれにより北麓集落(511集落)が埋没する被害出し477人の死者出した。なお、マグマ由来物質検出されていないためマグマ水蒸気噴火ではない。 この噴火明治になってからの近代日本初の大災害であり、大日本帝国政府国を挙げて調査救済復旧実施した調査関谷清景菊池安らにより行われた学術的調査としては、当時としては珍しいアンケートの手法が採られており、かなり詳細な噴火の経過被害状況写真収集され論文としてまとめられている。 のちに磐梯式との噴火形式名称が残るほど、世界的に有名な噴火となった復旧当たって義援金は38,000円(現在の貨幣価値で約15億円に相当)が集まり復興支えたまた、噴火前年の1887年結成され日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初平時救護それまで戦時救護のみ)ともなった。 現在、五色沼近くに「平時災害救護発祥の地記念碑」が建立されている。この山体崩壊生じた土地多くは、当時官有地であったため、民間資金労力利用した植林事業が行われ、泥流堆積地の7割を31年かけ緑化した。 崩壊推定規模 12 - 15*108m3。 噴煙推定高度 800m噴火の経過 噴火前の6月末頃から地鳴りなどの前兆現象があったが、当時は噴火との関連性の認識がなく、対処も行われなかった。 噴火当日の午前7時頃地震が発生し、地震はその後も続いた。 7時45分頃 小規模な噴火が始まる。住民証言、スケッチ、写真から水蒸気爆発を生じた地点は、小磐梯山頂西麓と銅沼付近であった。 最初の爆発から15から20回程度の爆発の後、小磐梯山北側の水平方向への爆発的噴火で大規模な山体崩壊が発生した。この山体崩壊により長瀬川とその支流がせき止められ、土石流や火山泥流が下流域に被害を与えている。このせき止めにより桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。裏磐梯の景観は、この時に形成された。また、かつての会津藩の財政を支えていた檜原金銀山の史跡も湖底に没した。 主な活動は、2 - 3時間で終了した。 噴火以前の山体 米地1988)の調査以前は、噴火前山体形状記録した資料はほとんど存在せず山頂部等高線絵画スケッチ知られているだけであった米地は、会津若松市刊行した写真集から噴火以前写真を見い出し江戸時代後期絵図合わせて山体復元行い地形模型作成したまた、小磐梯山の山頂付近傾斜40程度急峻な斜面であることを示し標高を1,760mと推定した山体崩壊とラハール 1992年東山麓のスキー場行われた崩壊斜面トレンチ調査によればラハール堆積物下層噴火初期発生した火砕物重力堆積物泥質降下火砕物重力堆積物が層になっており、爆発により山体崩壊生じた後に上昇していた噴煙柱から水分の多い火山灰豪雨様に降り注ぎラハール東山麓の琵琶沢沿いを約4km流下したと考えられている。

※この「1888年の噴火」の解説は、「磐梯山」の解説の一部です。
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