1888年の噴火と山体崩壊
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「1888年の磐梯山噴火」の記事における「1888年の噴火と山体崩壊」の解説
1888年(明治21年)7月15日の朝、7時30分ないし7時45分頃、磐梯山が噴火した。噴火とともに山体崩壊が発生して磐梯山北麓の集落が埋没し、更には山体崩壊の崩壊物は泥流となって長瀬川を流れ下った。また磐梯山東麓の主に琵琶沢流域には、土石流と火砕サージに伴う爆風(ブラスト)が襲った。そして湯治のために磐梯山中腹の温泉に滞在していた人々の多くが噴石などに襲われてその多くが亡くなり、死者477名を出す大惨事となった。これは明治以降の日本の火山災害の中で最大の犠牲者数である。 1888年の磐梯山噴火は欧米から近代科学を受け入れるようになった近代日本において、外国人から日本人に科学研究の主体が移り変わる時期に起きた。日本における火山の研究はようやく始まったばかりであり、磐梯山噴火は日本の火山研究が盛んになっていくきっかけとなった。中でも後述の帝国大学の関谷清景、菊池安による磐梯山噴火に関する研究は、日本における総合的火山研究の始まりであると評価されている。関谷と菊池は噴火後の磐梯山で地震計による連続観測を実施し、日本で器械を用いた最初の科学的火山観測であるとされている。更に関谷と菊池が共同で発表した論文は、その後の火山観測、火山災害についての研究の指針となった。 噴火直後、農商務省地質局、内務省地理局、そして帝国大学の研究者が現地に派遣された。各研究機関の職員は独自に現地調査、研究を進め、調査研究成果をそれぞれ論文として発表している。また当時活動していたお雇い外国人の研究者たちも磐梯山の現地調査を行い、成果を論文発表している。ところがその内容には噴火についての大きな見解の相違が見られ、結果として後世の研究者たちは、相矛盾する磐梯山噴火後の研究調査報告論文のいずれかを選択し、研究を進めていかねばならないジレンマがある。 これまでの多くの研究者は帝国大学の関谷清景、菊池安の研究成果をもとにそれぞれの研究を深化させている。しかし関谷 - 菊池の研究を基にした研究者間でも、例えば噴火の規模が大規模であったという説と、噴火そのものは小規模であったものの、急峻かつ不安定な山体が噴火を引き金として大崩落したという説が対立している他、磐梯山の噴火と山体崩壊のメカニズムや実態については明らかになっていない点が数多く残されている。
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