1835年州知事選挙における役割
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「ルビー・ラフーン」の記事における「1835年州知事選挙における役割」の解説
ラフーンは知事の任期が終わり近くなると、ベン・ジョンソンを高規格道路コミッショナーから罷免し、トム・レイを後任にした。この人事はレイを次の知事に仕立てるためのものだった。ラフーンとレイの影響力下で、民主党はその知事候補選びに再度予備選挙ではなく指名大会を選んだ。ラフーンの支持者達は州の民主党中央委員会、郡大半の政治組織を支配していたので、大会が開かれれば、ラフーンが選んだ知事候補が選ばれるはずだった。大会は1935年5月14日にレキシントンで開催されることになった。 1935年、ラフーンはルーズベルト大統領に会うためにワシントンD.C.に旅した。ラフーンはこの旅の目的がケンタッキー州に対する連邦政府の援助を引き出すためだと言っていたが、ラフーンの政敵は予備選挙を行わないことを大統領に言い訳するためだと主張していた。ルーズベルトはケンタッキー州中央委員会に予備選挙の採用を奨励する手紙を書いていた。ラフーンが州を離れた場合は、ケンタッキー州憲法の規定に従い、副知事のチャンドラーが知事代行となっていた。2月6日、チャンドラーは2月8日に州議会の特別会期を招集し、州の役人全ての候補者を選別するために予備選挙を要求する法案を審議すると公表した。ラフーンは急ぎ州に戻り、アシュランドに2月7日に到着し、即座にチャンドラーの招集を撤回する声明を発した。フランクリン郡の下院議員ジョン・ゲイトウッドが、ラフーンの命令に対する差し止め命令を取得し、予備選挙に賛成する議員が2月8日にフランクフォートに集まった。これらの議員は2月8日、9日、さらに11日も定数不足だった。2月11日、6人の議員がラフーンの撤回が合法であるかを問う宣言的判決を求めた。フランクリン郡巡回裁判所はチャンドラーの招集を支持し、ラフーンの撤回を無効と判断し、さらに当時は州内最終審だったケンタッキー州控訴裁判所がこの判断を4対3の票決で支持した。 2月13日、ケンタッキー州下院は定数に達し、上院も翌日定数に達したラフーンは特別会期に関する法廷闘争に敗れたので、決選投票のある予備選挙を提案した。すなわち、1回目の投票で過半数を得た候補者がいない場合に決選投票を再度実施するやり方だった。チャンドラーを含む数人の議員はこのやり方が元知事で上院議員のJ・C・W・ベッカムを標的にしたものであると考えた。ラフーンはベッカムがレイに対抗して知事候補指名を求めて来ると考えていた。彼らは二度の予備選挙があれば、高齢のベッカムには耐えられないだろうと見ていた。単一予備選挙の支持者は、自分たちだけで州議会を通すのが難しいと考え、2回の予備選挙に合意し、その法案は2月27日にラフーンが署名して法制化された。 民主党予備選挙には7人の候補者が立候補した。その中にはレイと副知事のチャンドラーが入っていた。元知事のベッカムは立候補しなかった。ベッカムの一人息子が1934年後半に死亡し、その家族が落胆し、ベッカムの妻はあらたな選挙運動を行うことに強く反対した。選挙戦の終わり近くになって、ラフーンは虫垂炎を患い、手術を受けたので、レイの応援ができなくなった。選挙前の争いで2人の候補者が脱落した。 予備選挙当日、州軍長官のデンハートが、選挙の際には暴力事件が起こることで知られたハーラン郡に州軍を入れた。州軍は有権者を誰何し、投票箱を検査し、数人を逮捕した。これらの行動は巡回裁判所判事ジェイムズ・M・ギルバートが発していた抑制命令に違背していたが、デンハートはラフーンからの命令で動いたと主張した。後にデンハートは「我々はケンタッキー州で行われたことがないような途方もなく計画された選挙違反を阻止した。我々がここに居なければ、チャンドラーが15,000票増やしていただろう」と報告した。デンハートはその後逮捕され、裁判所の抑制命令に違背した法廷侮辱罪で告発された。 予備選挙では、レイが1位票を得たが、過半数ではなかった。チャンドラーが2位につけており、この二人が9月7日に決選投票を行うことになった。その決選投票ではチャンドラーがレイを破り、候補指名を獲得した。ルーズベルト大統領は、1936年の大統領選挙で民主党の派閥争いが票を減らすことになるのを望まず、ラフーンとチャンドラーの仲を取り持とうとしたが、うまく行かなかった。ラフーンとレイはラフーンの閣僚の大半と共に党を飛び出し、共和党公認のキング・スウォープを支持した。チャンドラーは前任者からの支持を得られなかったが、選挙の結果知事に当選した。ラフーンは知事任期の残り期間で、ハーラン郡における予備選挙に州軍が干渉したことで告発されたデンハートとその他の者に恩赦を発行した。これらはラフーンが発行した恩赦560件という記録の中に含まれており、その多くは刑務所の混雑緩和が目的だった。
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