1835-1870年 高名な教師として
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「カミーユ=マリー・スタマティ」の記事における「1835-1870年 高名な教師として」の解説
35年(1835年 - 1870年)に渡り、スタマティはパリで引っ張りだこの、最も流行りのピアノ教師であった。彼には数え切れなくらいの生徒がおり、大半はサン=ジェルマンやサン=トノレ(en)などの伝統的なフォーブール(郊外地区)に住まう裕福な家庭の者たちであった。彼はパリでも最高額の授業料を課していた。マルモンテルによれば、彼は生まれつきの教師肌で、しかも生徒自身はそうでもないのに、その母親たちを信用させるという便利な才覚に恵まれていたという。 付け足すならば、彼(スタマティ)は都合の良い特性を全て組み合わせて、家庭の母親たちに自信を付けさせ、信用させていた。業績、慎み深さと正しく純粋な才能だ。彼は口数は少なかったが多くを成し遂げたのである。 ルイス・モロー・ゴットシャルクを除けば、スタマティの最も有名な弟子はカミーユ・サン=サーンスである。サン=サーンスは7歳の時(1842年)にスタマティに習い始め、14歳(1849年)になるまで彼と共に暮らし、それからパリ音楽院に入学した。後年になってこそ、サン=サーンスはスタマティの教育に対し非常に批判的であり、見下したような態度すら取りすらしたが、サン=サーンスがスタマティの指導の下、80歳だろうと彼の生きているうちは高い技術水準を維持した、第一級のピアニストになったということもまた事実である。 カミーユ・サン=サーンス カミーユ・サン=サーンス 1916年 ルイス・モロー・ゴットシャルク
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