1835年夏の流血事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:15 UTC 版)
「トレド戦争」の記事における「1835年夏の流血事件」の解説
オハイオ住民トゥー・スティックニー。ミシガンの保安官代理に刺された、トレド戦争における唯一の重傷者 ミシガンの民兵がオハイオ住民に発砲したという申し立てに対応して、1835年6月8日、議論を呼ぶいくつかの法律を可決するため、ルーカスはオハイオの立法府の特別議会を招集した。それには、トレドをルーカス郡の郡庁所在地とする、都市に一般訴訟裁判所を設立する、地域からのオハイオ市民の強制的な拉致を防止する、立法の実行のために30万ドルの予算を用意する法律が含まれた。ミシガンの準州立法府は、民兵への資金として31万5000ドルの予算を割り当てることでこれに応じた。 1835年の5月と6月、ミシガンは二院制議会、最高裁判所、その他の機能する州政府が機能する要素を整えて、州憲法を起草した。しかし、 議会はまだミシガンの連邦への加入を許してもよい気にはならず、ジャクソン大統領は境界問題と「戦争」が解決されるまでミシガンの州制は拒否すると断言した。 ルーカスは、民兵の数を指揮することを彼の州兵長官サミュエル・アンドリュースに命じると、1万人の志願兵が戦う用意があると言われた。そのニュースは北に伝わった時に誇張されて、すぐ後にミシガンの地元の新聞は、ストリップに進入するオハイオの「百万」の軍に対し、「彼らを歓迎します、居心地の良い墓場に」と敢然と立ち向かった。 1835年の夏の間ずっと、両方の州政府は相手よりも一枚上手に出る慣習を続け、絶えず小衝突と逮捕が発生した。モンロー郡の市民はトレドで逮捕するために民警団に参加した。オハイオ支持者らは、嫌がらせに怒って、違反者を刑事訴追の目標にした。訴訟はただ蔓延しただけではなく、反対側からの報復的な訴訟の原因となった。両側の支持者らは、境界の警備を委任されたオハイオのウッド郡とミシガンのモンロー郡の保安官の経過を追うスパイの集団を組織した。 1835年7月15日、緊張と激情はついに溢れて血が流れた。ミシガンのモンロー郡保安官代理のジョーゼフ・ウッドは、ベンジャミン・スティックニー少佐を逮捕するためトレドへ行ったが、スティックニーと彼の3人の息子が抵抗し、家族全員が鎮圧され拘留された。もみ合いの間、少佐の息子トゥー・スティックニーがウッドをポケットナイフで刺し、南のオハイオへ逃亡した。ウッドの怪我は命にかかわるものではなかった。裁判のためトゥー・スティックニーをミシガンに引き渡すメイソンの要求をルーカスが拒否した時、メイソンはジャクソン大統領に手紙で助けを求め、この問題を合衆国最高裁判所に持ち込むことを提案した。しかし紛争の当時、最高裁判所が州の境界紛争を解決できるということは規定されておらず、ジャクソンはその申し出を断った。平和を求めて、再びオハイオの議会代表団を経由した連邦の介入を通じて、ルーカスは紛争を終わらせる彼自身の努力を始めた。 1835年8月、オハイオの議員の強い要請により、ジャクソン大統領はメイソンをミシガンの準州知事から解任し、その代理にジョン・"リトル・ジャック"・ホーナーを任命した。メイソンは、解任される前に、1,000名のミシガンの民兵部隊にトレドへの進入して、象徴的に重要な、オハイオ一般訴訟裁判所の最初の会議を阻止するよう命令した。この考えはミシガン居住者に人気があったが、その努力は失敗した。判事らは深夜の法廷を開き、オハイオの部隊が駐屯していたモーミー川の南へすぐに避難した。
※この「1835年夏の流血事件」の解説は、「トレド戦争」の解説の一部です。
「1835年夏の流血事件」を含む「トレド戦争」の記事については、「トレド戦争」の概要を参照ください。
- 1835年夏の流血事件のページへのリンク