1834年イリノイ州議会議員選挙
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「エイブラハム・リンカーン」の記事における「1834年イリノイ州議会議員選挙」の解説
リンカーンが1834年に州議会議員へ2度目の出馬を行う決断をした背景には、彼の言う「国の負債」を支払う必要性と、議員としての給与に伴う追加収入に強く影響されるものがあった。この時期までにリンカーンはホイッグ党員となっていたが、その選挙戦略は国家的問題に関する議論を避け、地区内をくまなく歩いて有権者一人ひとりにあいさつすることに集中された。その地区のホイッグ党を指導するのは、リンカーンがブラック・ホーク戦争のときから知っていたスプリングフィールドの弁護士ジョン・トッド・スチュアート(英語版)だった。地元の民主党員はリンカーンよりもスチュアートの方を恐れており、13人いた党候補者のうち2人を降ろして(1832年と同様に上位4人が当選)リンカーンへの支持を表明し、スチュアートを破ることに集中できるようにした。スチュアートは自身の勝利を確信しており、リンカーンに民主党の後援を受け入れるよう助言した。この戦略が功を奏し、8月4日の選挙ではリンカーンが第2位の得票数となる1,376票を得て当選し、スチュアートも当選した。リンカーンは、多くの聴衆に向かって話す時でも一番端にいる者にも聞こえるように、声を鍛えた。あるとき、11歳の少年が一番前の席でリンカーンが演説するのを見上げていると、額に霧のようなものが落ちてきて濡れてしまったという。しかし、その少年は大きなハンカチを使ってその場を動かなかったということである。リンカーンの演説にはそれほど人を惹きつける力があった。
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