1676年のシュターデ攻囲戦
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「ブレーメン=フェルデン戦役」の記事における「1676年のシュターデ攻囲戦」の解説
ブレーメン=フェルデンの分割を巡る同盟各国の争議が続いたことによって、シュターデにおける攻囲戦の始まりは1676年の春まで遅延した。各国がブレーマーフェルデで諸条件に合意したのは、ようやく5月8日のことである。こうしてスウェーデンの最後の所領に対する攻撃は、歩兵16,000名と騎兵4,000名をもって実施されることになった。攻略後の要塞はデンマーク、ブランデンブルク、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクとミュンスターが等分して占領することとされた。4月初旬、リューネブルクのショーヴェ(ドイツ語版)中将が町を封鎖するべく策を講じる。続いてほぼ毎日のように、小競り合いとスウェーデン軍の出撃が発生し、その戦況は一進一退であった。同時に攻囲軍は、野戦築城を開始した。 シュターデはエルベ川の支流、シュヴィンゲ川(英語版)の河口にあり、海へ通じている。またスウェーデンの要塞施設には、シュヴィンゲ川の河口を支配するスカンス(英語版)が含まれていた。その掩護の下、攻囲戦の間に食糧を積んだスウェーデン船数隻が町へ到達し、逼迫していた補給を届けることができた。シュターデへの出入りを海からも阻止し、より効果的な攻囲を可能とするべく連合軍は、この「シュヴィンゲの砦」の攻略を決定する。そのため、グリュックシュタット(英語版)から砲兵隊が呼び寄せられた。この他、それぞれ大砲18門を備えたリューネブルクの艦船2隻がシュヴィンゲ川の河口に入る。これらの準備を阻止するため、スウェーデン軍が試みた出撃は全て撃退された。連合軍は次第に砦へと接近し、砲台を築くとそこからスウェーデン軍の陣地へ継続的な射撃を実施した。4月23日、スウェーデン軍は騎兵300名をもって改めて出撃を敢行し、最初は成功を収めたものの、同時代史料に拠れば46名の犠牲を出して押し戻される。7月4日には連合軍の野戦築城も完成し、シュヴィンゲの砦に激しい砲撃を加えた結果、およそ100名の守備隊は降伏した。 この失陥によって、海からシュターデに補給を送ることはもはや不可能になった。そして風向に恵まれず足止めされたスウェーデン艦3隻と、補給物資や兵員を乗せた6隻の輸送船がシュヴィンゲの河口に到着すると、それらは岸辺に設置された連合軍の砲台から砲撃される。スウェーデン艦隊はシュターデからの後退を余儀なくされ、周辺で数度の襲撃を敢行した後、やむなくエルベ川を離れた。 全ての補給を絶たれ、シュターデ要塞の状況は著しく悪化する。赤痢の発生により、守備隊の兵力はおよそ3,000名まで減少した。また物資の窮乏により、その士気も落ちる。2回にわたってスウェーデン兵は反乱を起こしたが、それを鎮めるには抑圧的な手段を用いるしかなかった。ドイツ人傭兵の脱走は規模を増し、もはや出撃による能動的な防戦は不可能となった。 6月、連合軍による塹壕の掘削作業は町の堀に到達するほど進展した。兵力を保つべく、町に突入せず兵糧攻めを実施するという意図から砲撃は行われなかった。一方、スウェーデンの守備隊が講じた対策は、管理していた水門を開き、周辺を水没させることであった。しかし攻囲軍は、水を二つの運河からエルベ川へと流すことに成功する。 町の補給状況が日増しに深刻化すると、市民と守備隊はホルン総督に攻囲軍との交渉を強いた。その折衝は7月23日に始まる。しかし、それはより厳しい条件であるにも拘らず、カトリックのミュンスター軍よりもプロテスタントのリューネブルク軍を占領軍として優先したい住民の強い要請によって長引いた。交渉の結果、町はショーヴェ中将率いるリューネブルク軍、9個中隊によって占領されることになった。ドイツ人傭兵は、スウェーデン軍における隊務を取り消さなくてはならなかった。1676年8月13日の早朝、ホルン元帥は大砲10門とスウェーデン兵800名を率いて撤収する。ドイツ人傭兵1,400名は「収容」、もしくは釈放された。これによって、連合軍はブレーメン=フェルデンにおけるスウェーデンの最後の拠点を手中に収めたのである。
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