くろだ‐きよたか【黒田清隆】
黒田清隆 くろだ きよたか
鹿児島生まれ。政治家、元老。父は鹿児島藩士。薩長連合の成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮。敵将榎本武揚の助命に奔走。維新後は開拓次官、のちに同長官として北海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入などを行う。明治9年(1876)特命全権大使として日朝修好条規を締結。明治14年の政変により開拓長官を辞任。第1次伊藤内閣の農商務相をつとめたのち首相となり、大日本帝国憲法の発布式典にかかわった。その後枢密顧問官、枢密院議長等を歴任した。
キーワード | 政治家, 首相 |
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黒田清隆
黒田清隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 09:01 UTC 版)
黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体:黑田 淸隆󠄁[注釈 1]、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家[1]。1888年(明治21年)から1889年(明治23年)にかけて第2代内閣総理大臣を務めた[1]。陸軍軍人としての階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。
注釈
- ^ 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆󠄁」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆󠄁」ないし「黑田淸隆󠄁」である。
- ^ 明治43年10月19日の報知新聞にも、大久保の部下であった千坂高雅が、清の妹から娘が聞いた話として、黒田による殺人であったことを断言しているインタビューが掲載されているが、10月27日に「記者の筆記に誤りがあった」として全文が取り下げられている。同年11月26日には「大久保はよく人に調べさせて、証拠を持った上で弁護されたのだ」として擁護する小牧昌業の主張が掲載されている[13]。
- ^ 島津久光が左大臣となったものの、大久保政権と対立して隠退した事例を指す
- ^ 新聞によると死亡時の清の年齢は33。
出典
- ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)「黒田清隆」(コトバンク)
- ^ “黒田清隆|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 2022年3月2日閲覧。
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 135.
- ^ a b 醍醐龍馬 2022, p. 138.
- ^ 北海道総務部行政資料室編『開拓の群像 下巻』P 214
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 140.
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 143.
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 143-144.
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 144-145.
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 146.
- ^ 醍醐龍馬 2022, p. 146-147.
- ^ 井上高聡「開拓使による海外留学生派遣意図の変遷」『北海道大学大学文書館年報』第14巻、北海道大学大学文書館、2019年、ISSN 1880-9421。
- ^ 佐々木克, ed (2004-11-10). 大久保利通. 講談社. pp. 65-69、80-82
- ^ 木曽朗生「明治十四年の政変の真相 (1)」『架橋』第6号、長崎大学教育学部政治学研究室、2005年3月、31-210頁、NAID 120006970634。
- ^ 赤木須留喜「明治国家における内閣制度と行政制度」『年報行政研究』第1992巻第27号、日本行政学会、2012年、89-92頁、doi:10.11290/jspa1962.1992.27_77、ISSN 2187-0381。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「黒田清隆」 アジア歴史資料センター Ref.A06051168300
- ^ 「元勲優遇ノ詔」 アジア歴史資料センター Ref.A14110275200
- ^ a b 伊藤之雄「元老の形成と変遷に関する若干の考察--後継首相推薦機能を中心として」『史林』第60巻第2号、史学研究会、1977年、241-263頁、doi:10.14989/shirin_60_241。
- ^ a b 小林吉弥 (2019年5月23日). “歴代総理の胆力「黒田清隆」(2)酒乱で妻を殺害したと風評が…”. エキサイトニュース 2021年2月12日閲覧。
- ^ a b c 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』 竹内正浩 実業之日本社 2017、黒田清隆の章
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、589頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ a b c d 平成新修旧華族家系大成上p570
- ^ http://hoppojournal.sapolog.com/e470399.html
- ^ a b c d e f 池上彰「池上彰と学ぶ日本の総理 黒田清隆」
- ^ “北海道開拓の先覚者達(4)~黒田清隆・榎本武揚~”. 財界さっぽろ (2013年7月15日). 2021年2月12日閲覧。
- ^ 桂四郎への書状
- ^ 『風雲回想録』p.55
- ^ 『官報』第1134号「叙任及辞令」1887年4月14日。
- ^ 『官報』第3988号「叙任及辞令」1896年10月12日。
- ^ a b 『官報』第5146号「叙任及辞令」1900年8月27日。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』号外「詔勅」1889年11月1日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ a b c 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
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