高速道路の建設構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:34 UTC 版)
「日本の高速道路」の記事における「高速道路の建設構想」の解説
高速道路建設の着想自体は実業家の菅原通済が1929年(昭和4年)に東京 - 大阪間に306マイル64チェーン(約493 km)の自動車専用舗装道路を事業費8,000万円(当時)で建設し、民間で運営する構想を打ち出したのが最初である。この「日本自動車道株式会社」計画は道路運営会社自体も旅客・貨物輸送(バス・トラック運行)を行い一般の自動車にも有料通行をさせるという鉄道事業と有料道路事業の折衷的構想で計画書も当局に提出されたが、自動車が一般に本格普及する以前の時代で不況とそれに続く戦時体制によってまったく実現しなかった。日本で初めて高速道路構想が持ち上がったこのころの戦前の道路計画では、弾丸よりも速く走れるという意味で弾丸道路と呼ばれていた。東海道新幹線の原形となった鉄道が「弾丸列車」と称したところから命名されたものである。 ドイツのアウトバーンに刺激され、1938年(昭和13年)頃から高速道路である自動車専用国道の議論が始まった。1940年(昭和15年)には内務省により東京 - 下関間の高速国道の調査が始められ、1943年(昭和18年)に全国自動車国道計画を策定した。計画によれば、北は樺太の国境端から北海道の稚内 - 札幌 - 函館間、本州は青森 - 下関間を太平洋側と日本海側でそれぞれ結び、九州では門司 - 福岡 - 長崎間まであり、総延長は5490 km、設計速度は平坦部が150 km/h、丘陵部が100 km/hであった。国防上の要請もあり計画されたが1943年(昭和18年)、戦局のために最優先区間とした東京 - 神戸間の調査も打ち切られた。 敗戦後の日本復興のために奔走した、田中清一と田中角栄の二人の活動は、日本に高速道路を誕生させる大きなきっかけとなった。静岡県沼津市出身の実業家である田中清一は、1947年(昭和22年)に国土改造計画の中心的命題になった、国土の普遍的開発の具体策として「国土開発縦貫自動車道構想」を起案し、この構想は当時の国会議員らをも動かし、高速道路建設を実現する原動力となった。田中角栄は、戦後の日本の道路整備の方向性を明確にし、のちに内閣総理大臣になった政治家で、特に1953年(昭和28年)に揮発油税を道路特定財源とする法整備を推進し、道路整備の安定的な財源確保の大きな支えとなった。
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