首都ローマの構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
ローマ市は、伝承によれば紀元前753年に、ロムルス王によってパラティヌスの丘に築かれたとされる。近年の発掘により、パラティヌスの丘の南西に、紀元前10世紀以前の数世紀に遡る居住跡が確認され、また、フォルム・ロマヌムとパラティヌスの丘では紀元前10世紀の墓地が発掘されているため、この時期までに、ローマの地にいくつかの集落があったと考えられている。紀元前9世紀頃になると、遺跡の数が増加し、墓地の場所もエスクイリヌスの丘に移ることから、居住空間が再配分され、人口が増え始めたことが示唆されるが、これらが一群の大きな集団であったかどうかは不明である。紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半になると、パラティヌスの丘のゲルマルス峰とパラトゥアリス峰に住居が発達し、紀元前650年頃にはパラティヌスの丘とクイリナリスの丘を分ける急流の排水工事によって、後に聖なる道(ウィア・サクラ)と呼ばれる道が開通する。住居域はフォルム・ロマヌムやフォルム・ボアリウムとなる場所にまで拡大したが、ローマの都市化はプラエネステなどの周辺村落よりも遅かった。 最初のフォルム、フォルム・ロマヌムが整備されたのは紀元前7世紀頃で、発掘により、紀元前625年頃のティベリス川の洪水の後にコミティウムが舗装され、ほぼ同じ頃にクリア・ホスティリアと思われる建物も建設されていたらしい。現在、目にすることのできるフォルム・ロマヌムで最も古い遺跡であるラピス・ニゲルも、おそらくこの前後に設置されている。紀元前7世紀末から紀元前6世紀末にかけて、ローマはエトルリア系の王を頂き、聖なる空間の整備や瓦葺きのレンガ造建築が建てられはじめ、この時期に、ローマが急速に都市化されていったことがわかっている。フォルム・ロマヌムを中心として、カピトリウムからウェリアに抜けるウィア・サクラ、すなわちカルド・マクシムスと、アルギレトゥム通り、およびトゥスクス通りとなるデクマヌス・マクシムスが形成された。この時期に都市を防衛する城壁(セルウィウス城壁)が形成され、7つの丘を包含する都市の輪郭も構成された。とはいえ、城壁は人口密集地に沿って構築されたのではなく、フォルム・ロマヌム近隣の人口過密地域以外では、人はまばらに住んでいるだけであった。当時、フォルム・ボアリウム(牛市場)やキルクス・マクシムス(現チルコ・マッシモ)はすでに存在していたが、カピトリヌスの丘からヴァティカヌス平原に至るカンプス・マルティウスは宗教的タブーによって開発されておらず、ローマ市から除外されていた。また、テヴェレ川はあくまでも城壁の一部であり、都市は河川をまたぐ構造にはなっていなかった。 共和政時代を通じて、市街が拡張していくにつれて、フォルム・ロマヌム周辺にあるような整然とした都市は、徐々にその輪郭がわからなくなっていき、市中心部から放射状に抜ける道路にそって、蜘蛛の巣状の都市が形成された。北に通じるラータ通りは市街を抜けるとフラミニア街道になり、アウェンティヌスの丘のふもとから南西にオスティア街道が、カエリウスの丘(現チェリオの丘)のふもとから南にアッピア街道がそれぞれ抜けるようになった。首都の人口が飛躍的に増大すると、ローマから明確な都市の構造は失われてしまうが、それでも都市の構造を明確にする意味から、共和制末期にフォルム・ロマヌムでは再建が行われる。フォルム・ロマヌムは周囲を丘に囲まれ、雨水が溜まりやすい構造になっていたため、クロアカ・マキシマ(巨大排水溝)が造営されていたが、これはヴォールトによって覆われ、敷石によって広場が形成された。フォルムの軸となるヴィア・サクラ(聖なる道)はすでに古来のデクマヌスとはかなりずれており、東西南北に軸線を構成することは不可能になっていた。このため、聖なる道を東西に通すことは諦め、代わりにカピトリヌスへ向かう方向が設定されたが、その結果、聖なる道はフォルムの途中で著しく折れ曲がってしまった。周囲のフォルム、神殿は、紀元前2世紀から帝政初期にかけて継続的に造営され、今日の姿になるまでに、実に200年近い時間を要している。 ローマ市の再構築を妨げていたのは首都の保守性であったが、一方で超過密状態も都市再建の大きな障害となっていた。帝政初期の時代に、ローマ市の人口はすでに推定100万人を突破 しており、次第に共同住宅は高層化、ありとあらゆる土地に住宅が建て込まれたため、公共建築をたてるスペースは限られていた。公共施設を訪れる人間も非常に多くなり、裁判もバシリカ(バシリカ・エアミリアとバシリカ・センプロニア)では対処しきれず、屋外で行われることが多くなった。ユリウス・カエサルは、このような状況を打開すべく、当時宗教的タブーによって開発されていなかったカンプス・マルティウスに都市を拡張することをはじめ、カエサルのフォルムの造営を開始した。この計画はカエサルの死によって頓挫したが、対案としてオクタウィアヌスはエスクイリヌスの丘に住宅の建設用地を確保した。しかし、エスクイリヌスの丘は市中心部から遠く、結局ローマの過密状態は回復することがなかった。 そのような状況の中で起こったのが、64年のローマ大火である。これはローマ市民とキリスト教徒にとっては災厄でしかなかったが、市街地が壊滅したため、ネロ帝と、恐らくは右腕として働いた建築家セウェルスは、ローマ市中心部の土地を没収し、これを再建することができた。そしてその後、ローマ市中心には歴代皇帝によるフォルムが建設されることになるのである。
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