電信ケーブル社勤務
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「電信ケーブル社勤務」の解説
1913年7月25日、ヒッチコックは13歳で聖イグナチウス・カレッジを修了し、正規の教育にピリオドを打った。ヒッチコックは両親にエンジニアになりたいと言い、ポプラーにある海洋技術専門学校のLondon County Council School of Engineering and Navigationの夜間コースに入学し、力学や電子工学、音響学、航海術などを学んだ。翌1914年11月(1915年初めの説もある)にはロンドンのW・T・ヘンリー電信ケーブル社に、敷設予定の電気ケーブルの太さやボルト数を測定する営業部門のテクニカルアドバイザーとして就職し、週15シリングの給料を得た。その1か月後の12月12日、父親のウィリアム・エドガーが持病の肺気腫と腎臓病のため52歳で亡くなり、兄のウィリアム・ダニエルが父の経営した店を引き継いだ。 そのうちヒッチコックは、エンジニアの仕事が面白くないと感じるようになり、1915年には仕事をしながらロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強をした。次第にヒッチコックの関心は芸術の方に移り、とくに映画や演劇を盛んに見るようになり、映画技術専門紙や映画業界紙を愛読した。当時のヒッチコックはイギリス映画よりもアメリカ映画の方が好きで、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)と『イントレランス』(1916年)に強い感銘を受けたほか、チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードなどの作品を好んで見ていた。 ヒッチコックがエンジニアとして働いていた間に第一次世界大戦が起きていたが、開戦した当初にヒッチコックは若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、1917年に適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類(「深刻な器質的疾患がなく、居住地の駐屯地での使用条件に耐えられるが、座っての仕事にのみ適している」)を受けた。そのためヒッチコックは王立工兵連隊(英語版)の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加した。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラー(英語版)によると、ハイド・パークでの実践的な演習の1つとして、巻脚絆を着用する訓練があったが、ヒッチコックは脚絆を足に巻き付けることができず、何回やっても足首にずり落ちたという。一部の伝記作家は、戦争の残虐行為が神経質なヒッチコックにトラウマ的な経験を与えたと述べている。 その後、ヒッチコックはイラストを学んでいたおかげで、ヘンリー電信ケーブル社の広告部門に転属し、会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事をした。後年にヒッチコックは、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と述べている。1919年6月には、会社の従業員に6ペンスで販売された社内誌『ヘンリー・テレグラフ』の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿した。創刊号に寄稿した最初の短編小説『Gas』は、若い女性がパリで男性の暴漢に襲われるが、それは彼女が歯医者での治療中に見た幻想だったという物語で、伝記作家のドナルド・スポトー(英語版)はこの作品から「若きヒッチコックが、読者をあやつる技法と恐怖をかもしだす術を本能的に心得ていた」と述べている。しかし、時間が経つにつれ、ヒッチコックは広告デザインの仕事に飽き始め、週15シリングの給料にも満足しなくなった。
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