闇酒の横行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
戦争によって醸造業も壊滅的な打撃を受けた。戦火に焼かれた酒蔵だけでも223場にのぼり、昭和20酒造年度(1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))の全製成量の17%の酒が失われ、杜氏や蔵人などの人的損失もたいへん大きかったが、わけても深刻だったのが食糧難、とくに原料となる米の絶望的な不足であった。1946年(昭和21年)5月19日の「飯米獲得人民大会」(いわゆる「米よこせメーデー」)を抑えこんだ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本国政府へ酒類の製造を禁止する命令を下した。しかし、過去アメリカ合衆国における禁酒法が実効をあげなかったこと、闇酒が多くの犠牲者を出していたこと、大手ビール会社が確保していた大麦の一部を供出したこと、などの要因によって、命令は実施に至らなかった。 兵士たちの復員などによって飲酒人口が急増し、また暗い世相を反映して酒類への需要が高まり、供給が追いつかなかったためメチル、カストリ、バクダンなどの密造酒が大量に横行した。どぶろくなどの従来の密造酒と比べてアルコール濃度が高く、激烈で有害なのが特徴で、闇市場で売買されることから闇酒ともいう。「酔えば何でもよい」という闇酒によって、多数の死者が出た。 メチルとは、戦争中に石油燃料の代用とするために製造されたエチルアルコールを水で希釈したものに、人が間違えて飲まないようにわざわざメチルアルコールを混ぜ、目立ちやすいように桃色に染めたものであったが、戦後の食糧難のなかで人々は、危険を半ば承知でこれらに手をつけた。それも必ずしも下層階級ばかりでなく、分別も教養もある人々が酒への渇望から飲み、失明したり死亡したりした。新聞では「目散/命散(めちる)」などと書かれた。 カストリとは、本来は酒粕を蒸留して作る伝統的な焼酎の一種であったが、当時は密造の粗悪な芋焼酎のことを指し、飲んだ後のコップが油ぎって汚れるのが特徴であった。関東では多摩川をはさんで大田区から川崎市川崎区、近畿では尼崎市が生産地として有名であった。 バクダンとは、戦時中の航空基地などで使い残された燃料用アルコールの変成したものを、活性炭で脱色し水で薄めたもので、闇市の酒場では「即席焼酎」などと呼ばれて売られ、さらに他の酒へ割り込むこともあった。失明・死亡率が最も高かった。 1947年6月には、密造酒の製造基地のひとつであった川崎市の在日朝鮮人集落を摘発した税務署員が殺害される神奈川税務署員殉職事件が発生した。1947年9月の密造酒生産量は50万2000キロリットルで、正規の酒の生産量34万3000キロリットルを大幅に上回っていた。 1949年4月には、菊正宗などの有名酒の偽ラベルを印刷、所持していたブローカーが逮捕されている。少なくとも40万枚のラベルが印刷され、安い酒瓶に一級酒のラベルを貼り流通させていた。
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