三倍増醸酒の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
闇酒の横行は国民の健康を損ねるだけでなく、治安を悪化させ、日本国政府にとっても酒税の税収の低減につながるため、合法的でなおかつ米を原料としない酒が真剣に研究された。清酒と合成清酒を混ぜた混和酒が考案されたが、政府が採用したのは、第二次世界大戦中に満州国の関東軍が命令して開発された第二次酒を応用した、三倍増醸清酒であった。三倍増醸清酒(三増酒)とは、醪をしぼる前に、その醪から生成すると見込まれる清酒の2倍量のアルコールに、あらかじめ調味料を入れて調味アルコールとし、醪に加えて圧搾にかけ、結果的に約3倍の製成酒を得るというものであった。合成清酒や混和酒と区別するために、調味料として使える原料はブドウ糖、水飴、乳酸、コハク酸、グルタミン酸ソーダ、無機塩類にかぎられた。 この手法を実現するためには、より純度の高いアルコールに含まれる不純物を加水抽出する技術が必要であったが、1949年(昭和24年)10月フランスの蒸留機メーカーであるメル社のアロスパス式加水蒸留が日本蒸留工業にもたらされて問題点を解決するに至り、三増酒の生産が昭和24酒造年度(1949年(昭和24年) - 1950年(昭和25年))に本格的に導入された。全国で150場の酒蔵が試醸に参加した(なお、試醸に参加した酒造場数を200場とする資料もある)。ちなみに、このように生産される工業アルコールは、焼酎、ウィスキー、ワインにも同様に使われた。 三倍醸造酒が実用化される直前の昭和23酒造年度(1948年(昭和23年) - 1949年(昭和24年))は、全国各地で腐造が相次いで起こった。当時は米も酒も貴重品で、酒造用米の割り当ても酒の製造量も極端に少なかった。市場における供給不足は深刻なので醸造試験所や鑑定官・各県の指導技師は、腐造醪の救済のため添加用アルコールを特別配給し、これを醪に添加して醗酵を止め、味を調整してなんとか「酒」にする手法を指導した。こうして三倍増醸清酒が酒造場に受け入れられていった。 日本酒をめぐる需給バランスは敗戦直後よりもむしろ悪化する一方で、昭和23酒造年度(1948年(昭和23年) - 1949年(昭和24年))あたりが最悪であった。1947年(昭和22年)の全国の製成量は昭和初年の10分の1を下回り、同年3月の配給酒1升の公定価格は43円であったが、闇市での実勢価格は500円を上回っていた。日本酒への原料米の割り当てが1945年(昭和20年)(敗戦時)の水準に戻ったのは、1951年(昭和26年)である。
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