長浜トンネル(有間川駅 - 谷浜駅)
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「頸城トンネル」の記事における「長浜トンネル(有間川駅 - 谷浜駅)」の解説
長浜トンネルは旧線長浜トンネルに並行して新設される、糸魚川駅 - 直江津駅間で最も短いトンネル(完成時延長1,158 m)であり、土被りが浅いために大部分で風化層を掘削する必要があったものの、他の区間と比較して良質な地層であり、前述した施工にあたっての技術的問題点もないトンネルとされていた。工事は三井建設の請負で1966年(昭和41年)7月25日に着手し、直江津方坑口から掘削を開始した。掘削は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻方式を採用した。 しかし、1967年(昭和42年)1月20日22時25分ごろ、直江津方坑口から136.0〜156.4 m 間(米原起点356 km 992 m)地点で突如崩壊が発生し、上部半断面(延長20.4 m)、底設導坑(24.0 m)が埋没した。これにより当時支保工変状の為補強支保工の建て込みを実施していた作業員計10名(上部半断面6名、底設導坑4名)が巻き込まれ、このうち上部半断面で5名が埋没した。埋没を逃れた5名は崩壊後まもなく底設導坑のエアパイプを通じて生存が確認され、エアパイプで照明用電灯線、食糧、衣類、毛布が送られた。救助は糸魚川駅 - 直江津駅間でトンネルを施工していた全12の請負業者から延べ347名の応援を受け、上部半断面山側と底設導坑海側に救助坑を掘削し、事故から82時間後の1月24日9時10分に生存者が上部の救出坑から救出された。なお、埋没した5名は、2名が生存者救出時、残る3名が救助作業後の底設導坑復旧時にいずれも遺体として収容された。 当時、支保工に鋼アーチ支保工が採用されるようになり落盤事故が減少していたことと、同区間が入念な事前調査によりルート選定・設計を実施していたこともあり、この事故は関係者・国鉄に大きな衝撃を与えた。このため応急救助作業の終了後、部内外の権威者による「北陸本線長浜ずい道事故技術調査委員会」が設置され、同年2月4日から2月15日にかけ特別委員・委員による現地視察を行った。 事故技術調査委員会では同年6月19日に事故原因について結論を出し、掘削により地盤が坑口方向へクリープする現象により泥岩の亀裂面の隙間が大きくなり、山のゆるみが促進されたこと、崩壊箇所付近が局部的に特に弱い風化層がトンネル天端から上方約5〜6 mの位置まで及んでおり、ゆるみが上部まで及び、加えて同年1月15日から17日にかけての積雪(1.4 m)が17日以降の気温上昇により融け、地山のゆるみを促進させたことにより、急激に支保工にかかる土圧が増加し、瞬間的に崩壊したものとしている。また、白井・那須(2000)では、事故技術調査委員会の指摘に加え、崩壊箇所付近の小断層を境に地質の力学的特性が異なっていた(手前が第三期風化泥岩、奥が第三期泥岩)ことも指摘している。 なお、掘削含めた工事は1968年(昭和43年)7月24日に竣工し、他区間に先駆けて複線の供用を開始している。
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