鉄道誘致活動の始まりとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 鉄道誘致活動の始まりの意味・解説 

鉄道誘致活動の始まり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:52 UTC 版)

北越急行ほくほく線」の記事における「鉄道誘致活動の始まり」の解説

ほくほく線中間付近にあたる松代村まつだいむら。現十日町市一部)では、1920年大正9年4月15日松代自動車株会社設立されて、バストラック運行開始した。この会社1932年昭和7年)に売却され頸城自動車となる。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備本格化する1960年昭和35年)頃までは、道路交通5月上旬まで完全に不能となり各集落孤立状態となるのが常であったほくほく線建設進められていた1980年代になってもなお、十日町松代を結ぶ国道253号薬師峠毎年不通となり、直線距離13 キロメートルkm)のところを柏崎直江津を通る120 kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道重要性必要性痛感していた地元関係者は、1931年昭和6年)に当地訪れた朝日新聞記者が「この不便な山間地を開くには鉄道貫通させなくては」と発言したことに刺激され民間中心鉄道誘致運動開始された。その口火を切ったのは、松代自動車設立者常次であった。 既に1916年大正5年5月4日には、頸城鉄道(くびきてつどう)が新黒井 - 浦川原間を全通させていた。当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願1932年昭和7年8月国会提出した。この時点では松代から信越本線直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか)なかった。その後さらに発展的な構想として、北陸地方東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡町村長六日町 - 直江津間に鉄道敷設する陳情書国会提出した1938年昭和13年4月になると時勢から軍事用役割付加されて、軍都呼ばれた高田起点とする「北越鉄道」の構想打ち出され国防にも役立つという位置づけとされた。1937年昭和12年8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量経済調査実施され路線案の比較検討が行われるとともに地元による国会への請願繰り返された。 この時点までは、路線北側直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町統一されていた。しかし1940年昭和15年)になり、南側越後湯沢駅とする案が持ち上がった。これはスキーをしに松之山温泉来ていた鉄道省技師が、越後湯沢直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽はっきりしていない。この年10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線経済調査実施され、両案の資料が揃うことになった1942年昭和17年)から両案の誘致活動繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳し対立ではなかった。1944年昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町川西町経て2005年合併十日町市一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道延長する形で松代までを結ぶ路線建設決まり工事予算1800万円計上されたが、翌年敗戦により計画中止された。

※この「鉄道誘致活動の始まり」の解説は、「北越急行ほくほく線」の解説の一部です。
「鉄道誘致活動の始まり」を含む「北越急行ほくほく線」の記事については、「北越急行ほくほく線」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鉄道誘致活動の始まり」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

鉄道誘致活動の始まりのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鉄道誘致活動の始まりのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの北越急行ほくほく線 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS