鉄道誘致活動の始まり
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「北越急行ほくほく線」の記事における「鉄道誘致活動の始まり」の解説
ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部)では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、バスやトラックの運行を開始した。この会社は1932年(昭和7年)に売却されて頸城自動車となる。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった。ほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13 キロメートル(km)のところを、柏崎・直江津を通る120 kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された。その口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった。 既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道(くびきてつどう)が新黒井 - 浦川原間を全通させていた。当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線(直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか)なかった。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された。 この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち上がった。これはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。この年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(川西町を経て2005年の合併で十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された。
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