金屋の十三塚とは? わかりやすく解説

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金屋の十三塚

名称: 金屋の十三塚
ふりがな かなやのじゅうさんづか
種別 信仰用いられるもの
員数 13
指定年月日 1986.03.31(昭和61.03.31)
所有者
所有者住所
管理団体名:
備考
解説文: 明治末年柳田国男は「十三塚」の研究先鞭をつけ、後に著書十三塚考』を著わして以来十三塚民俗学主要な研究テーマ一つであった全国各地所在する数は、二、三〇〇か所にのぼるとされていたが、開墾土木工事によって破壊されたものも少なくなく残存状況近年まで不確定であった
 昭和五十七・八年度に神奈川大学日本常民文化研究所全国十三塚現況調査行ったところ、完存するものは十数か所に過ぎず、その破壊著しく保存状況憂慮すべきのである提言している。
 十三塚とは、十三の列塚に対して命名されたもので、十三基の土盛の塚(稀に積石塚もある)からなる低く小さい列塚のうち中央の塚が一段と大きく築造されている型式多く十三人武将非業の死をとげた者を葬ったとする伝説を伴うものが少なくないが、築造理由時期については論議交わされてきた。その名称を「十三仏塚」とするものがあるところから、十三仏信仰にともない築造されたとする説が有力である。
 十三仏とは、不動釈迦文殊普賢地蔵弥勒薬師観音勢至阿弥陀・阿〓【あしゆく】・大日虚空蔵であり、初七日から三十三回忌までの忌日と結びつけて十三仏配される宗派的には、禅宗真言宗重んじられており、葬送の際には十三仏掛軸をかけ十三仏念仏唱える習俗もある。
 十三仏信仰成立時期は、文献石造遺物からして室町時代十五世紀初めとみられ、十六世紀にかけて、特に信仰が盛んであった模様である。十三塚築造もこの十三仏信仰流れ中に位置づけられるものとみられる
 金屋の十三塚は、兵庫県氷上郡山南町金屋所在し鎌倉・室町時代栄えた岩屋山石龕寺【いわやさんせきがんじ】への参道山道左手接し十三基が南北一列築造されている。この十三塚には、足利尊氏京都落ちて逃れてきたとき、部下十三人追っ手立ち向かい奮戦の後、自刃果てたが、尊氏は無事石龕寺逃れ、後に十三人部下冥福祈って塚を造ったという伝説がある。
 この十三塚規模は、一辺二・一ないし一・五メートル・高さ〇・二ないし〇・六メートルほどの平面方形小さな列塚十二基とその中央の一辺三・七メートル×三・八メートル、高さ〇・九メートルの親塚一基とからなっている。親塚は他の十二基の列塚と比べてひときわ大きく築造されている。この十三塚全国各地にある他の十三塚比較して塚の規模こそ小さいが、盛土でなく、割石積んで塚となしたことは類稀である。この十三塚には南から数えて三号塚と八号塚に小さ一石五輪塔があり、ことに八号塚の塔は保存が完好で塚の中央に建つ。高さ五五・六センチメートル石英粗面岩製、水輪扁球形で、火輪軒端上端突出する様式からして室町時代後半期のものとみられ、十三塚築造時期を示す有力な資料とすることができる。
 金屋の十三塚は良く原形保ち積石塚であるなど類稀である。また、一石五輪塔が残存することは、築造時期室町時代後半期推定できるものとして重要で、庶民信仰様相を示すものとして貴重である。



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