配合に関する論議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 13:51 UTC 版)
最初に提示され、そして長期にわたり最も人気のあった説では、ギリシア火薬の主要成分が硝酸カリウム(硝石)であると考え、またそれは火薬の初期の形態であったとした。この議論は「雷と煙」の説明が基となっており、加えて距離の上でも、サイフォンから放射することのできた炎とは爆発的な放出を示唆するものとした。イサーク・フォシウスの時代ごろから、有名な化学者マルセラン・ベルテロを含む数人の学者、ことに19世紀中のフランスの学派はこの見解を固守した。それからこの見解は、硝酸カリウムが13世紀以前のヨーロッパまたは中東で戦争に使用された形跡が見られないこと、また同時期より以前に、地中海世界で最も化学的だったアラブでも全く著述が見られなかったことから拒絶された。さらに、提示された混合物の性質と、東ローマ帝国の資料によって記述されたサイフォンによって放射される物体とが根本的に異なっていた。 ギリシア火薬が水で消すことができなかったという要素、むしろいくつかの資料では水をその上に注ぐことが火勢を強めたと示唆することに基づく第二の見解は、この破壊力は水と生石灰の爆発的な反応の結果であると提唱した。生石灰は確実に知られていた物質であり、また東ローマ帝国もアラブ側も戦争に投入しているが、この説は文学と経験的な証拠から論破された。生石灰をベースとした物質は着火するために水と触れなければならなかったが、甲板が常時湿っているにせよ、しばしばギリシア火薬は敵船の甲板上に直接注がれたことがレオーン6世の軍事書『タクティカ』で示されている。同様にレオーン6世は手榴弾の使用について説明している。これは、物質が着火するには、水との接触が必ずしも必要ではないという観点のさらなる補強である。さらにまた、海上での実際の水と生石灰の反応結果は取るに足りないものであると、C. Zenghelisは実験に基づいて指摘した。また別の提案では、カリニコスが実際には二リン化三カルシウムを発見していたことを示唆した。水と接触すると二リン化三カルシウムはホスフィンを放出し、これは自発的に着火する。しかし広範な実験でも、記述にあるギリシア火薬の強力さを再生することに失敗した。 混合物には生石灰および硝酸カリウムの両方の存在が全く含まれないわけではないものの、これらは主要な成分ではなかった。現代の学者達の大部分は、実際のギリシア火薬は石油を基にしたもので、未加工もしくは精製済みの両方が有り得たということに同意している。比較すれば現代のナパーム弾がこれに当たる。東ローマ帝国は、黒海周辺にある、自然にわき出るいくつもの井戸から容易に原油の供給が受けられた。例えばトムタラカン周辺の井戸がコンスタンティノス7世によって言及されている。また他の中東を通じた様々な場所でも同様であった。ギリシア火薬の別の名前は「メディアの火」であり、また6世紀の歴史家であるプロコピオスは原油について記録しているが、これはペルシア人からは نفت 「ナフサ」と呼ばれ、ギリシャ人には「メディア油」と呼ばれていた。これはギリシア火薬の主要成分としてナフサが使用されたことを補強するように見える。また現代に残る9世紀のラテン語の資料がドイツのヴォルフェンビュッテルで保管されており、これもギリシア火薬らしく思われる成分と、これを放射するために用いるサイフォンの操作について言及している。この資料にはいくつか不正確な点が含まれているが、主要成分が明らかにナフサであることを特定している。またおそらく増粘剤として様々な樹脂が混入された。『Praecepta Militaria』では、この物質について「粘つく火」と称している。これは炎の持続時間と威力を増すためであった。 サラーフッディーンのためにマーディ・ビン・アリ・アル=タースシが用意した報告書には、一種のギリシア火薬のアラブ版が記録されている。これはナフトと呼ばれ、石油をベースとしたものに硫黄と各種の樹脂を加えたものである。しかし東ローマ帝国の製法とは、どのような直接の関連もほぼ有り得ない。アッバース朝軍にはこれを含む焼夷兵器の専門部隊(naffatun)が存在するなど西アジア全域でも広く使われ、十字軍が使用した記録もある。一説にはマグリブやイベリア半島で火薬兵器の開発が盛んだったのは、原料となる石油がこの地域では産出されなかったからとされる。
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