郗慮とは? わかりやすく解説

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郗慮Xi Lu

チリョ

(?~?)
御史大夫

字は予。山陽高平の人《武帝紀》。

誤って郄慮」とも書かれる『晋書』では玄孫の郗鑑を高平金郷の人とする。

若いころ鄭玄師事していた《武帝紀・後漢書鄭玄伝》。名を知られたのち、荀彧召し寄せられ《荀彧伝》、建安年間一九六~二二〇)の初め侍中任じられる武帝紀》。同六年、郗慮は尚書令荀彧司隷校尉鍾繇とともに禁裏入り天子お側付いて講義行った後漢紀》。

少府孔融は「予どのの名声実力裏打ちされており、鄭玄門下生として儒学熟達している上、『司馬法』にも明る人物だ」としきりに誉め、郗慮の方でもまた「文挙どの(孔融)は類まれな博識であり、現代において匹敵する者はない」と称えていた《後漢書孔融伝》。

帝があるとき郗慮と少府孔融だけを特別に招き孔融に「予はどんなところに優れておるか?」と訊ねると、孔融は「ともに道を行くべきも、未だともに計るべからず」と答えた。郗慮は笏を振り上げながら「孔融はむかし北海治めておりましたが、でたらめな政治のために民衆流浪いたしました。どこに計りごととやらがございましたか!」と言い孔融互い優劣競い合い、とうとう仲違いする至った武帝紀》。

孔融は、曹操次第野心現してきたのを見てとり、しばしば正論でもって彼に突いた曹操寛容なそぶりを見せつつも内心では孔融剛直ぶりを疎ましく思っていた。郗慮はその気持ち察知し微罪でもって孔融免職すべきだと上奏した《後漢書孔融伝》。

郗慮と孔融仲違い表面化すると、曹操孔融手紙書いて「むかし国家東方遷都たばかりのとき、ご両人互いに褒めあっていたではないか。孤(わたし)は文挙どのと馴染みがあったわけではないし、予どのと付き合いがあったわけではない。ただご両人互い尊重され傷付けあうことのないようにと願っておるのだ」と述べて二人和解させようとしたが、孔融聞き入れなかった《武帝紀・後漢書孔融伝》。一年余り経ち孔融太中大夫左遷された《後漢書孔融伝》。

後漢紀』によると孔融建安九年九月時点ですでに太中大夫として見える。郗慮との仲違い建安八年ごろのことだろうか。なお太中大夫光禄勲属官である。

建安十三年正月、司徒趙温が曹操の子曹丕召し出そうすると、曹操は「趙温は臣(わたくし)の子弟を召し出しましたが、縁故ばかりを選抜し実力軽視しております」と上表し、癸未侍中光禄勲郗慮を持節として趙温を免官させた《文帝紀・後漢紀》。

同年八月丁未、郗慮は光禄勲から御史大夫異動になった後漢書献帝紀・後漢紀》。曹操はもともと孔融恨み募らせていたし、そのうえ郗慮が孔融の罪をでっち上げたのを利用し丞相軍謀祭酒路粋命じて無実孔融弾劾上奏させた。そのため、同月壬子孔融処刑された《後漢書孔融伝・後漢紀》。

後漢紀』が郗慮を光禄大夫から御史大夫異動させた、とするのはおそらく誤りだろう。

十八五月丙申天子御史大夫郗慮を持節として曹操魏公任命した武帝紀・後漢紀》。

十九十一月、伏皇后が父伏完曹操殺害要請していたことが発覚し、帝は曹操脅迫され皇后廃位詔勅出した御史大夫郗慮は持節として詔勅携え、伏后から璽綬を取り上げ宮殿から追い出して別邸移した尚書令華歆が郗慮の副官として軍勢率いて宮殿入り、伏后を逮捕した。帝は離宮にいて郗慮とともに座っていたが、伏后が引き据えられたのを見ると、郗慮の方を振り返って「郗公よ、こんなことがあってよいものか」と言った武帝紀・後漢書皇后紀》。丁卯、伏皇后殺された《後漢書献帝紀》。

郗慮は劉劭召し出そうとしたが、ちょうど同じころ郗慮は罷免された《劉劭伝》。

参照華歆 / 孔融 / 荀彧 / 鍾繇 / 曹操 / 曹丕 / 趙温 / 鄭玄 / 伏完 / 伏皇后 / 劉協天子帝・国家) / 劉劭 / 路粋 / 魏 / 高平侯国 / 山陽郡 / 北海国 / 御史大夫 / 軍謀祭酒 / 公 / 光禄勲 / 光禄大夫 / 侍中 / 司徒 / 丞相 / 尚書令 / 少府 / 司隷校尉 / 太中大夫 / 司馬法 / 璽綬 / 持節 / 笏 / 守


郗慮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 20:40 UTC 版)

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郗 慮(ち りょ、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。兗州山陽郡金郷県の人。字は鴻豫。子や孫の名は不詳。玄孫は郗鑒

生涯

若いころは鄭玄に師事していた。名を知られたのち、荀彧に召し寄せられ、建安年間の初め、侍中に任じられた。

建安6年(201年)、郗慮は荀彧・鍾繇とともに禁裏へ入り、献帝の側について講義を行なった。孔融とは元々仲が良かったが、後にお互いの優劣を競い合うようになり、とうとう仲違いするに至った。

建安13年(208年)8月、曹操丞相に就任すると、郗慮は光禄勲から御史大夫に昇進した。

建安18年(213年)5月、献帝は郗慮を持節とし曹操を公に任命した。

建安19年(214年)11月、伏皇后が父の伏完に曹操殺害を要請していたことが発覚し、献帝は皇后廃位の詔勅を出した。郗慮は持節として詔勅を携え、伏皇后から璽綬を取り上げ、宮殿から追い出し別邸に移した。また、華歆が郗慮の副官として軍勢を率いて宮殿に入り、伏皇后を逮捕した。献帝は離宮において郗慮とともに座っていたが、伏皇后が引き据えられたのを見ると、郗慮の方を振り返り「郗公よ、こんなことがあってよいものか」と言った。結局、伏皇后は殺された。

その後、郗慮は劉劭を召し出そうとしたが、丁度同じころに郗慮も罷免された。



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