返還と論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 05:31 UTC 版)
1997年8月27日、Colbung、Robert Bropho、リチャード・ウィルクス(Richard Wilkes)、ヌンガーのMingli Wanjurriからなる代表団がイェーガンの頭蓋骨を受け取るためイギリスに入った。代表団はもっと大規模になる予定だったが、直近になって連邦基金が費用を渋ったため縮小された。 しかし、返還はすぐには行われなかった。何故なら、Corrie Bodneyというヌンガーが所有権を主張して西オーストラリア州最高裁判所に告訴したためである。訴状によると、彼の一族が唯一正当なイェーガンの子孫であり、発掘は違法で、オーストラリアに移す行為も伝統的または宗教的な必然性は全く無いと主張した。さらに他のヌンガーAlbert Corunnaも自分こそ最もイェーガンに近い系統だと訴え出た。最高裁判所は英国政府の行動を緊急に規制する権限を持っていなかったので、西オーストラリア州政府にイェーガンの遺骨引渡しを一時保留するよう求めた。事情を考慮したイギリス政府は、引渡しを一時見合わせ問題解決を待った。裁判所は、Bodneyが返還計画に以前は同意していたこと、民族の古老や人類学者へ行った調査の結果がどちらもBodneyの主張に反駁する内容だったことを考慮して、訴えを退けた。 1997年8月31日、リバプール・タウン・ホール (en) で式典が行われ、イェーガンの頭蓋骨がヌンガーの代表団に引き渡された。この際、Colbungは同日に亡くなったダイアナ妃の事件と結びつけ、「イギリス人(Poms - Prisoner Of Motherlands)は自ら犯した罪の対する罰を受けたのだ。彼らは、我々がそうしているように、自然の意志を学び取る態度が求められているのだ」と語った。このコメントはメディアに取り上げられオーストラリア中で報道され、驚きや怒りの反響が数多く提起された。後にColbungは、このコメントは真意を伝えていないと抗議した。 パース返還の途上にあっても、依然としてイェーガンの頭蓋骨についての議論や争いは喚起され続けた。埋葬についてはリチャード・ウィルクスを委員長とした「イェーガン再埋葬委員会」(Committee for the Reburial of Yagan's Kaat)が責任を持つことになったのだが、年長者たちの意見が纏まらず、再埋葬はすぐに行われなかった。議論が紛糾したポイントは主に埋葬地をどうするかであり、イェーガンの身体がどこに埋められたか明瞭でない点、またそもそも頭部と身体を一箇所に埋葬すべきかどうかで揉めていた。パース郊外のBelhusにあるウエスト・スワン街道のいずれかの地と推測されている、身体が埋葬された地を特定しようという調査は何度も行われていた。1998年からはリモートセンシング調査が行われたが結果は出ず、引き続き行われた2年間の考古学的調査でもさしたる成果は得られなかった。この状況に、頭部と胴体を別々に埋葬する是非が論争された。リチャード・ウィルクスは、イェーガンが殺された地に頭部を埋葬すれば、ドリームタイム (en) の精神が彼の遺体をふたたびひとつにすると主張し、別々へ埋葬することを支持した。 1998年、西オーストラリア州開発委員会とアボリジニ関係局は共同で「イェーガン埋葬マスタープラン」を策定し、彼が埋葬されたとされる地所の所有権、管理、開発や将来にわたる利用などを定めた。そこには、埋葬地を首都墓地評議会(Metropolitan Cemeteries Board)が管理する先住民用の埋葬地に移すことも考慮されていた。 その後、イェーガンの頭蓋骨は検視官の手によって修復が施されて一時的に銀行の金庫室に置かれ、その後は州の死体安置所に保管された。埋葬予定は何度も延期や遅れを見せ、その度にヌンガーのグループ間で争いの火種になった。再埋葬委員会は記念公園やモニュメントを作って金儲けのネタにしようとしていると、ヌンガー共同体が告発したためである。これに対しリチャード・ウィルクスは、委員会メンバーはイェーガン直系に当たり、また適切な埋葬を志向しているが、用地交渉が長引いているために遅れているだけだと反論した。2006年6月には、ウィルクスは頭部埋葬を2007年7月までに実行する予定だと表明した。また同年、火葬し灰をスワン川に流す代替案がColbungから提示された。
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