近代都市計画の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 15:37 UTC 版)
日本では都市の近代化のため、明治政府により外国人建築家が招聘され、外国人居留地改造、銀座煉瓦街、鹿鳴館などが建設された。1886年(明治19年)には、東京の中心部をベルリンやパリのように壮麗な都市にしようとする計画案がヘルマン・エンデとウィルヘルム・ベックマンによって作られている。 都市計画の制度としては1888年(明治21年)公布された東京市区改正条例をもって日本の近代都市計画の誕生とすることが一般的である。鉄道馬車が実現したことなどから、道路や鉄道を計画的に築造する必要性を痛感した東京府知事の芳川顕正が1884年に原案をまとめ、内務省に提出した。芳川案を内務大臣山縣有朋らが検討し、修正を加えた後、1888年、東京市区改正条例が公布され、政府の機関として東京市区改正委員会(芳川顕正委員長)が置かれた。東京市区改正事業により、大正時代までに路面電車を敷設するための道路拡幅、上水道整備などが実施された。なお、市区改正条例はその後東京のほか横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市(六大都市)にも準用された。 日本の社会構造の変化や都市への人口集中を背景に、都市や建築の統制が必要という機運が高まり、1919年(大正8年)、市街地建築物法(建築基準法の前身)と合わせて都市計画法(旧法)が制定され、翌年施行。住居地域、商業地域、工業地域というゾーニング制度、都市計画制限(道路など都市計画施設予定地内での建築を規制)、区画整理制度などが創設された。当初は6大都市が対象で、次第に他の都市へも適用されていった。 関東大震災後、及び第二次世界大戦後の復興に際しては、それぞれ区画整理を中心とする特別都市計画法が制定された。東京では、関東大震災後に後藤新平による帝都復興計画が打ち出されたが、莫大な予算が必要なことから反対意見が多く、計画のごく一部が実施されるにとどまった。また、終戦後の1945年(昭和20年)には、東京戦災復興都市計画なる都市計画が打ち出されていたが、財政難と急速な人口膨張により事業計画見直しは余儀なくされ、当初の壮大な都市計画は大幅に縮小される結果となった。 1960年代(昭和30年代後半から40年代にかけて)の高度経済成長の過程で、都市への急速な人口や諸機能の集中が進み、市街地の無秩序な外延化が全国共通の課題として深刻化した。現在の都市計画制度はこのような緊急に対応が求められていた社会経済情勢を背景として成立した。都市計画法(新法)は1968年(昭和43年)に制定され、翌年施行された。この法律で8区分の用途地域制、市街化区域・市街化調整区域の区分、開発許可制度などが導入された。
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