軍政とポプリスモ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:45 UTC 版)
「エクアドルの歴史」の記事における「軍政とポプリスモ」の解説
1944年5月、軍、共産党、社会党を巻き込んだ広範な民衆蜂起により、アロヨ政権が崩壊し、亡命先のコロンビアから帰国したベラスコ・イバラが大統領に就任し、五月革命が成功した。しかし、第二次イバラ政権下で腐敗政治とインフレが進み、1947年に軍事クーデターでベラスコ・イバラは失脚し、アルゼンチンに亡命した。1948年に自由党系のガーロ・プラサが大統領選挙で勝利した。プラサ政権は地震や軍の反乱などに見舞われたが、この時期に東部アマゾンの油田が合衆国資本のシェル石油によって開発された。また、1949年以降ユナイテッド・フルーツ社をエクアドルに誘致した。 1952年にベラスコ・イバラが大統領選挙で勝利し、第三次イバラ政権が誕生した。同時に前政権のユナイテッド・フルーツ社誘致により、この年からバナナがエクアドル最大の輸出品目になった。このバナナによりコスタで新たな富裕層が生まれ、同時に農村部にてワシプンゴ制のような半封建的な労働関係から、資本主義的な労働関係への移行が進み、階層分化も進んだ。このような階層分化から、農地改革を求める農民が出現するが、ベラスコ・イバラはこれを強権的に弾圧した。 1956年にベラスコ・イバラは任期を無事に終え、キリスト教社会党から出馬したカミーロ・ポンセがプラサ政権以来の外資導入による農業、油田、鉱業の開発を進めた。しかし、1959年にバナナブームが終焉すると、ポンセ政権は不安定化し、1960年にはベラスコ・イバラが大統領に就任した。第四次ベラスコ・イバラ政権は1960年に1942年のリオデジャネイロ議定書を無効と宣言し、ペルーのアマゾン領有を認めない姿勢をとって民族主義色を打ち出し、この時からエクアドルは「アマゾン国家」であることを標榜するようになったが、経済の衰退に対処できず、翌1961年に失脚した。後を継いだ副大統領カルロス・フリオ・モンロイの時代に、キューバ革命の影響を受けてエクアドル青年革命同盟がゲリラ戦を開始し、1962年にはキューバとの断交を決意した。1963年にモンロイはゲリラに脅威を覚えた軍部のクーデターにより失脚し、海軍のラモン・カストロ・ヒホン提督が政権に就いたが、左翼勢力を弾圧する一方で「進歩のための同盟」の要請に基づいて行われた農地改革は遅々として進まず、国内がまとまらないまま1966年にヒホン政権は崩壊した。 ヒホン政権崩壊後は、グアヤキルの資本家を支持層に持ったオットー・アロセメナが大統領に就任し、1968年にアロセメナが失脚すると、同年第五次ベラスコ・イバラ政権が誕生した。インフレが進み、対外債務も増大する中、1970年にベラスコ・イバラは独裁宣言を行うが、1972年に大統領選挙を4ヶ月前にして地主、学生の抵抗を受け、軍事クーデターにより失脚し、アルゼンチンに亡命した。
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