軍政と教育の統合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 04:25 UTC 版)
1919年(大正8年)4月15日、陸軍航空部令(勅令第111号)の施行により陸軍航空部(以下、場合により航空部と略)が設立された。その任務は同令第1条で「航空ニ関スル事項ノ調査、研究及立案」と「航空兵諸軍隊本科専門教育ノ整一進歩」ならびに「航空ニ関スル器材ノ製造、修理、購買、貯蔵、補給及検査」を掌(つかさど)ることが定められた。 陸軍航空部は本部と補給部からなり、陸軍大臣に隷属する本部長が全般を統率する。初代本部長は井上幾太郎少将が補職された。本部は調査、研究、教育の管理を担当し、器材の製造、修理、購買、貯蔵、補給、検査等は補給部が担当する。担当の現地現業は、調査、研究、教育は埼玉県入間郡の所沢陸軍飛行場に設立された航空部本部長隷下の陸軍航空学校が、補給、検査等は同じく所沢に置かれた補給部支部が実行した。それと時を同じくして陸軍省では軍務局内に航空課が新設され、工兵課が行っていた航空関係人事などの行政を担当することになった。また、交通兵団司令部は廃止され、各航空大隊は所在地の師団に編入された。 こうした施策は既述の井上案からは相当に後退したものであったが、陸軍の中で航空のみが教育(操縦や技術など本科専門に限り、軍人としての一般教育は除く)を軍政統轄者である陸軍大臣隷下の部署で扱うことになり、異例かつ画期的なことであった。これは航空部隊の教育訓練と、現業軍政である器材補給との緊密な連携が重要視され、同一機関、すなわち航空部によって担当処理する必要性が明確になったからである。陸軍航空部は当初東京市麹町区永田町の陸軍陸地測量部内に置かれ、編制定員は本部長以下将校、将校相当官、技師など29名、准士官、下士官、技手など22名、総計51名で陸軍航空すべての管理を開始した。陸軍航空部は毎月1回、補給部支部あるいは陸軍航空学校などの幹部も集めて事務連絡の会合を行い、円滑な航空業務の推進をはかった。また井上本部長は山積する各種の問題、とくに陸軍省および参謀本部に対する交渉、意見具申をみずから行い多忙を極めたが、同じ山口県出身の田中義一陸軍大臣、同じ工兵科出身の上原勇作参謀総長との関係は良好であった。 1920年(大正9年)5月、日本の航空開発に歴史的な足跡を残した臨時軍用気球研究会は、その任務を陸軍航空部と陸軍航空学校ほかに引き継ぐかたちで廃止され、それまで同研究会が保管していた飛行機および気球、ならびに工場とその器材は陸軍航空部に移管された。同年7月、陸軍航空部は近隣の麹町区隼町(通称は三宅坂)に新設した庁舎へ移転した。また、参謀本部には同年8月、第一部第二課(作戦)に航空班が新設された。さらに同年9月、新たに補給部支部を岐阜県各務原に設置した。従来より所沢にあったものは補給部所沢支部と名称変更、新設のものを補給部各務原支部とし、所沢は東日本の、各務原は中部日本以西の各部隊および学校に対する補給業務を担当することになった。
※この「軍政と教育の統合」の解説は、「陸軍航空本部」の解説の一部です。
「軍政と教育の統合」を含む「陸軍航空本部」の記事については、「陸軍航空本部」の概要を参照ください。
- 軍政と教育の統合のページへのリンク