身体障害者のためのスポーツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:02 UTC 版)
「障害者スポーツ」の記事における「身体障害者のためのスポーツ」の解説
身体障害者のためのスポーツはリハビリプログラムから発展してきた。第二次世界大戦で負傷した大勢の退役兵と市民の要求に応えるためにスポーツがリハビリの要として導入され、リハビリ用のスポーツが発展してレクリエーションスポーツになり、さらに発展して競技スポーツとなった。このアプローチを始めたのはイギリスのストーク・マンデビル病院のルートヴィヒ・グットマンである。1948年、グットマンはロンドンオリンピックの開会式当日に車いす選手のための競技大会をストーク・マンデビルで開催した。これが起源となってストーク・マンデビル競技大会が生まれ、パラリンピックへと発展した。パラリンピックの運営は国際パラリンピック委員会が各種の国際的スポーツ団体と協力して行っている。 詳細は「パラリンピック」を参照 日本で1939年3月19日東京の陸軍戸山学校運動場で招聘慰問体育運動大会が開催され手足切断傷病兵約240人が出場、競技種目はバスケットボール、サッカー等8種目。健常者の選手約400人も陸上、サッカー等で模範演技披露。1936年ベルリンオリンピックの陸上5000メートルに出場した村社講平選手らが参加。パンフレットには主催者の大日本体育協会会長・貴族院議員の下村宏が文章を寄せ日中戦争を「有史以来の重大事局」と位置づけた上、大会目的について「傷病兵への慰問の誠意を体育運動将棋によりて披露するのは当然すぎた企てである」と記した。藤田紀昭日本福祉大学スポーツ科学部教授は「スポーツが戦争に巻き込まれた一つの形といえる。」高嶋航京都大学文学部准教授は「群は士気を保つ狙いから傷病兵の処遇を怠ると周囲の兵隊や家族にも波及し徴兵制の根幹や兵力動員に支障をきたすことを恐れたのだろう。」1938年発行の一冊の中で陸軍軍医が「傷者に最適の運動が要求される。」「(スポーツが)自己の身体に自信を付けさせる精神的効果は極めて甚大。」1939年4月、5月の機関紙にも掲載、傷病兵のリハビリの実態について「陸軍病院で義手・義足を用いて武道や各種運動競技が励行されている。」と触れた。1941年6月の第2回で途切れた。「(1941年12月の)太平洋戦争突入後、新聞からも傷病兵の記事が消えていった。軍に傷病兵へ配慮する余裕がなくなり社会にアピールする必要もなくなったのだろう。」と高嶋航京都大学文学部准教授。
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