赤母衣衆とは? わかりやすく解説

赤母衣衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)

前田利家」の記事における「赤母衣衆」の解説

青年時代の利家は血気盛ん槍の又左衞門槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。 弘治2年1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家家督争いである稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績上げる。 永禄元年1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安岩倉織田氏)の息子織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた前述異名呼ばれ始めたのも、この戦いころからという。また、この戦いの後永禄初年ごろに新設され赤と黒母衣衆(ほろしゅう信長親衛隊存在直属精鋭部隊)の赤母衣衆(あかほろしゅう筆頭抜擢され多く与力添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・幸を儲ける。 永禄2年1559年)、利家は信長寵愛受けた同朋衆拾阿弥諍い起こし拾阿弥斬殺したまま出奔した。この事件俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。当初、この罪での成敗避けられなかったが、柴田勝家森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され浪人暮らしをする。この間熱田神宮社家松岡家庇護を受ける。 永禄3年1560年)、利家は出仕停止受けていたのにも関わらず信長無断桶狭間の戦い参加して朝の合戦で首一つ本戦二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参許されなかった。 永禄4年1561年)、利家は森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣日比野下野守家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力豪傑討ち取る功績挙げた。この時、足立以外にも首級1つ挙げている。2つ首級持参して信長面前に出ると、今回戦功認められ信長から300貫が加増されて450貫文となり、ようやく帰参許された(『信長公記』)。 利家の浪人中に父・利春は死去し前田家家督長兄利久継いでいたが、永禄12年1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家家督を継ぐように命じられる理由利久実子がなく(養子利益居た)、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井頼覚書』)。 以後の利家は、信長推進する統一事業従い緒戦参加する元亀元年1570年4月には浅井氏朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長警護担当し6月姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績上げる。同年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績上げる。天正元年1573年8月一乗谷城の戦い、同2年1574年7月長島一向一揆、同3年1575年5月長篠の戦いなどでは佐々成政野々村正成福富秀勝塙直政と共に鉄砲奉行としての参戦確認されている。

※この「赤母衣衆」の解説は、「前田利家」の解説の一部です。
「赤母衣衆」を含む「前田利家」の記事については、「前田利家」の概要を参照ください。

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