赤母衣衆
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青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。 弘治2年(1556年)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。 永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いのころからという。また、この戦いの後、永禄初年ごろに新設された赤と黒の母衣衆(ほろしゅう:信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・幸を儲ける。 永禄2年(1559年)、利家は信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した。この事件は俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家や森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受ける。 永禄3年(1560年)、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。 永禄4年(1561年)、利家は森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。 利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。理由は利久に実子がなく(養子は利益が居た)、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井重頼覚書』)。 以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加する。元亀元年(1570年)4月には浅井氏・朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、6月の姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げる。同年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる。天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦い、同2年(1574年)7月の長島一向一揆、同3年(1575年)5月の長篠の戦いなどでは佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されている。
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