赤坂の戦い
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早良郡から上陸した元軍は、早良郡の百道原より約3km東の赤坂を占領し陣を布いた。 博多の西部に位置する赤坂は丘陵となっており、古代には大津城が築かれ、近世に至っては福岡城が築かれるなど博多攻防の戦略上の重要拠点であった。 一方、日本軍は総大将・少弐景資の下、博多の息の浜に集結して、そこで元軍を迎撃しようと待ち受けていた。日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには不向きであるため、元軍が博多に攻めてくるのを待って、一斉に騎射を加えようという判断からであった。 ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた。 なお肥後の御家人・竹崎季長一党は元軍との会敵を求めて西へ移動中に、赤坂での戦闘で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇している。
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赤坂の戦い
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1866年(慶応2年)7月27日、赤坂山は長州戦争(小倉戦争、豊長戦争)最大の激戦地となる。赤坂の戦い、赤坂口の戦い、赤坂山の戦い、赤坂合戦、赤坂・鳥越の戦いなどと呼ばれている。小倉戦争における幕府軍は征長軍小倉口総督小笠原長行(老中)の指揮下にあったが、配下の幕府陸軍歩兵隊、九州諸藩軍とも戦闘参加には極めて消極的で、開戦以来小倉藩軍が単独抗戦を強いられている状態だった。長州軍側は海軍総督高杉晋作が指揮していた。 小倉戦争は、6月17日の長州軍による田ノ浦急襲で始まった。小倉藩は、征長軍の九州口先鋒として戦備を整えていたが、装備は旧式であり、また小笠原総督の指導力の無さから幕府陸軍歩兵隊や九州諸藩軍が傍観的な姿勢に終始する中で、単独で長州側の先制攻撃への抗戦を強いられ、田ノ浦に続いて7月2日-3日の大里の戦いでも苦戦を続けていた。大里の戦いの敗戦後、小倉藩は防衛体制を再編し、小倉城下防衛上の最重要拠点である赤坂・鳥越地区に熊本藩軍を配属することとした。 熊本藩細川氏は、小倉藩小笠原氏とは戚族(親族)の関係にあり、全体として参戦に消極的な九州諸藩の中では小倉藩に最も近い立場にあった。軍備の近代化も進めており、征長軍への参加に際しても、家老・長岡監物の指揮下にアームストロング砲(8門)や洋式銃などを装備した精鋭を派遣していた。この部隊が、延命寺台場を含む赤坂・鳥越地区に布陣することとなった。 7月27日に、長州軍は侵攻を再開し、大里地区から小倉に向かった。小倉藩軍は抵抗を続けたものの、火力の差が大きく、後退しながら延命寺台場の前面に長州軍を誘引した。熊本藩軍はここで長州軍に激しい銃砲撃を加えて大打撃を与え、更に小倉藩軍が追撃して大里方面まで長州軍を撃退することに成功した。 この戦いで延命寺は焼失した。 小倉戦争で初めて幕府側優位となった戦闘であったが、小笠原総督に対する熊本藩軍の不信は高まり、7月28日に熊本藩軍は無断で赤坂からの撤退を開始し、帰国する。長岡監物が出した支援要請を小笠原総督が拒絶したこと、熊本軍も少なからぬ被害が出ていたことが原因だったとされる。 長州軍側では、奇兵隊第一小隊(槍隊)隊長山田鵬輔らが戦死した。また奇兵隊軍監として赤坂の戦いに参戦していた山県有朋が後に記した「越の山風」に、同じく参謀として参戦していた時山直八が越後長岡藩との朝日山の戦いで戦死する前日、山県に語ったことが記されている。「豈に科らんや此別即ち時山(時山直八)との永訣とならんとは、別に臨んで時山が、明日の戰ひは赤坂の戰ひよりも困難なるべしと語りたる、其の言葉は、今尚余の耳底に留まりて、悲酸の響きを爲し居るなり」 幕府軍から熊本軍が離脱したことで、小倉藩は孤立した。8月1日、小倉藩は自ら小倉城に火を放ち、香春に撤退した。
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