貴乃花部屋時代
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平成の大横綱と呼ばれた第65代横綱・貴乃花は、2003年(平成15年)1月場所限りで引退して一代年寄・貴乃花を襲名、父である11代二子山が親方を務める二子山部屋の部屋付き親方となっていた。2004年(平成16年)2月1日付で二子山部屋を継承し、同時に部屋の名称も貴乃花部屋へと変更された。 貴乃花部屋と改称してからは最初に迎え入れた弟子となる藤中が2004年(平成16年)3月場所にて初土俵を踏んだものの、藤中はわずか10ヶ月で引退しボクシングに転向した。同年5月場所中に貴ノ浪が引退して部屋から関取が不在となり、2000年代中期には入門者も現れずに所属力士が減少した。また、この時期には貴乃花部屋の部屋付き親方である17代藤島(元関脇・安芸乃島)と貴乃花親方が対立したことから、17代藤島が入門時の師匠である11代二子山に許可を受けて2004年(平成16年)5月27日に高田川部屋へ移籍(事実上の破門)するという内紛も起こった。 しかし、2008年(平成20年)3月に約4年ぶりの新弟子となる貴天秀が入門して以降は、徐々に所属力士が増加し、2018年(平成30年)9月場所時点で8人の力士が在籍していた。2012年(平成24年)7月場所においてモンゴル出身の貴ノ岩が新十両へ昇進し、貴乃花親方が部屋を継承してから入門した力士としては初となる関取が誕生した。 2010年(平成22年)1月に行われた日本相撲協会理事選挙において、貴乃花親方が二所ノ関一門内の事前調整を拒否して独自に立候補を表明したために、貴乃花部屋はそれまで所属していた二所ノ関一門から離脱した。その後はどの一門にも属さずに、大嶽部屋など志を同じくする部屋と「貴乃花グループ」を形成し、2014(平成26年)年5月に同グループを「貴乃花一門」と改称した。 2016年(平成28年)4月8日には、貴乃花部屋の部屋付き親方である15代常盤山(元小結・隆三杉)が20代千賀ノ浦を襲名して千賀ノ浦部屋(現:常盤山部屋)を継承し、貴乃花部屋から独立した。 2016年(平成28年)5月29日には所属力士の両国国技館への通勤時間軽減を理由として、旧・藤島部屋が創設された1982年(昭和57年)2月から使用してきた部屋施設から移転する意向であることが明らかとなり、同年6月16日に35年続いた中野新橋の部屋で稽古納め、同年7月5日に東京都中野区から東京都江東区東砂へと新たに部屋を移転し、同年7月27日に土俵開きを行った。 外国人や学生相撲出身の力士が台頭する中で、貴乃花親方自身が経験してきた昔ながらの叩き上げ教育を軸に若手を育てていた。そのため、長らく在籍力士の全てが中卒の日本人力士のみであるという特徴があったが、2008年(平成20年)11月場所においてモンゴル人力士の貴ノ岩が入門して以降、中卒以外の力士も在籍していた。また、部屋を継承した直後は、貴乃花親方は自身の自宅から部屋に通う形で弟子を指導してきたが、2005年(平成17年)8月からは部屋に住み込んで弟子と生活を共にするようになっていた(ただしおかみである花田景子は同居していなかった)。 2018年(平成30年)9月25日、貴乃花親方は日本相撲協会に引退届と部屋の所属力士、床山、世話人の全員を他の部屋の所属とする所属変更願を提出した。同日の貴乃花親方記者会見で千賀ノ浦親方を後継者に指名していたという発言があったこと、また提出されていた書類に不備があったため翌26日に千賀ノ浦親方が貴乃花部屋に出向いて貴乃花親方に面会。8人全員の受け入れ要請を受けた千賀ノ浦親方はこれを了承し、あらためて協会に提出する書類が作成された。 これを受けて相撲協会は10月1日にこの問題を審議するための臨時理事会を開催し、年寄貴乃花の日本相撲協会退職及び貴乃花部屋に所属していた力士・呼出・世話人について千賀ノ浦部屋に移籍することを承認した。これにより貴乃花部屋が消滅することとなり、10月2日に所属力士と裏方が千賀ノ浦部屋に移籍した。
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